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研究内容

大見出し 盲ろう者になって26年
自らを分析し、学際分野に貢献

インタビュアー:教授 伊福部 達

中見出し 9歳で視覚、18歳で聴覚を失う

聞き手福島先生は、『盲ろう者とノーマライゼーション』『渡辺荘の宇宙人―指点字で交信する日々』といった著書があったり、ドラマや漫画の主人公になったりと多方面に活躍されていますが、今般、学位論文としてその集大成をまとめられるそうですね。
私は9歳で見えなくなり、18歳で聞こえなくなって、盲ろう者になったわけです。そこが私の半生の重要な原点というか出発点になっていて、それから26年。今44歳の私は盲ろう者として生きた時間の方が長くなっています。
博士論文のテーマを設定するにあたって、各方面に興味があって迷ったのですが最終的に原点に戻ったらどうかということになりました。つまり、自分が見えなくなって聞こえなくなったことがどういう意味を持っているのか対象化して、分析することがおそらく教育学、社会学、心理学、コミュニケーション論、あるいは障害学などに一定の貢献をするだろう、何よりもこれは自分にしか書けないだろうから、自分が生きている間にまとめたほうがいいかなと思ったんです。これは学問的には社会学の一種、すなわちエスノグラフィーを自分に対して行う、「オートエスノグラフィー」になるらしいのですが、自分のことを描写するのはとても難しく、悪戦苦闘しています。
聞き手盲聾だったヘレン・ケラーは自伝で自己表現をして伝記を残していますね。福島先生との違いは?
客観的な事実として、彼女は生後19ヶ月で目と耳の能力を両方失って、とてもプリミティブな状態で幼児時代を過ごします。その後、サリバン先生の導きでヘレンは言葉と出会うわけですね。ところが私の場合は最初は見えて聞こえていた。そこからまず右目が、次に左目が見えなくなって、さらに右耳そして左耳が聞こえなくなるというように順番に機能が落ちていきました。ヘレンは右肩上がりの直線ですが、私の場合は落ちてから上がるV字曲線を描く人生です。
その間、私は3つの世界を渡り歩いたと思っています。小学校3年生までは見えて聞こえる普通の人の世界、高校2年生までは見えないけれど聞こえる世界、そして今は見えなくて聞こえない、という3つめの世界を体験しつつあります。それぞれの世界における感覚はよく覚えていますので、とても不思議で人生を3回やっている感じがあります。

中見出し 言葉そのものが持つ力と、
言葉を超えて伝わる文脈と

聞き手論文でも3つの世界を描きながら自分を主観的に見たり、客観的に見たり、色々な観点から自分の全体像を表現しようとしていますよね。
盲聾者になった18歳、指点字という方法が見つかって周りの人に情報提供してもらって復活していく約半年の重要な時期を「智」、その後の自分を振り返っているのが「福島」、それを執筆しているのが「筆者」であり「私」というように分けようと、考えています。
以前、テレビのニュース番組を1分間録画して、その中に含まれている画像データ、音声データ、文字データをとりだして、バイト数を簡単に計算したら、画像データが文字データの5万倍、音声データは2千倍だったんです。2千倍と5万倍だから音と光の両方があるデータと音だけのデータの差は25倍。だけど、音だけと文字だけは2千倍のバイト数の違いがあるから25倍と2千倍でその間には80倍の比率があって、見えなくなったときに経験した情報の減少より、見えなくて聞こえなくなってからの方が、劇的に少なくなったという自分の体験的実感ともマッチしたんですね。ところがその一方で思ったのは、バイト数では決定的に情報量が少なくなったのに、それなりに生活や仕事が出来ている。これは一体、どういうことなのか。
そこには2つの大事なファクターがあります。ひとつは、バイト数に還元できない言葉そのものの持つ力。もう一つは、コミュニケーションをサポートしてもらうことで、その言葉が生き物のように動いて豊かな世界を私に提供してくれるということ。そのことが、私をこの世界につなぎとめているんだなぁと感じています。
聞き手バイト数に還元できないプラスアルファがコミュニケーションにとって非常に大事だという、このプラスアルファとは具体的にどういうものでしょうか。
言葉そのものの力というのは、先ほど伊福部先生が「今日は暑いよね」と仰って、それに対して「北海道ご出身だから大変でしょう」と申し上げたら、先生は「汗腺が半分くらいしかないんだと思う」と表現されました。「汗腺が半分くらいしかないと思う」、というのは文字にしてしまえばわずかなデータです。でもそれに含まれるなんとも言えない暑さ、しんどさ、体の底に染み付いた先生が生きてこられた生活空間と東京とは根本的に気候が違うんだ、ということがこの一言で表現されているわけです。ここには言葉が持つ潜在力みたいなものがあります。
もう一つは、生きたコミュニケーションを提供してくれている通訳者の存在です。そこには言葉を超えたいろんな文脈が伝わる、例えば先生は先ほど「バイト数で還元できないデータは何ですか」というところを、間違われて「言葉ではないところは何ですか」といわれてその後に訂正なさいましたが、これは暑さが先生にボディーブローのように利いていらっしゃるんだ、という背景が伝わる(笑)。例えば、こういうことです。
聞き手大変わかりやすい (笑)。実は東京で福島先生に最初にお会いしたとき、私に「半ズボンを穿いていて涼しそうですね」って言ったんですね。その時はびっくりしてしまって。通訳者が提供するその場の環境情報もすごく大事だと感じたんですが、そのあたりはどうですか。
すべての情報を伝えるのは絶対に無理で、それどころか現実の視覚的・聴覚的情報のごくわずかしか伝えられないので、私の通訳者は膨大な情報量の中から何を切り取るかという、俳句を即興で作るようなセンスが要求されるということですね。例えばラジオの野球中継で、アナウンサーが球場の膨大な情報の中から限られたものだけを選んで伝え、聞いている人がその場面を生き生きと想像することができる、あれと似たような行為を通訳者にお願いしています。もちろん完璧というものはないし、個人差もあるわけですけれども。5年前の7月に伊福部先生が半ズボンだったという情報は、先生の性格や人となりを一定程度イメージさせるし、何よりも東京をとても暑く感じておられるんだろうなということがよくわかる重要情報だったわけです(笑)。
聞き手ジェスチャーや抑揚などノン・バーバル情報の役割はどのように考えていますか。
私もかつては聞こえていたし、その前には見えていたので、非言語的なジェスチャーといったものが多くの内容を伝えていることは理解できるんですが、今の私には自力でそれをキャッチできません。今は情報が少ないことを逆手にとって先入観を抱かないことを心がけています。また、私には第一印象というものがないので、ゼロから出発してコミュニケーションのやり取りの中から徐々に相手のイメージを肉付けしていくという方法をとっています。
通訳者もある程度、指の強弱やリズム、抑揚で伝えてくれます。私自身は、本を読むのと似た感覚で相手の発言に注意を向けていて、例えば助詞や接続詞の使い方、語尾が「ね」なのか「よ」なのか、そういったことで感じはつかんでいます。とは言っても、そこには限界がありますが。

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