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第7回 認知科学 分野 渡邊 克巳 准教授

渡邊 克巳 准教授

第五回の西村先生、第六回の池内先生と続いて読ませていた(少なくとも私にとっては)エキゾチックな周辺(末端)が、先端につながる可能性が示されているように思われました。
少し前に、私もブータンの病院を視察する機会がありました。そこでは伝統医療と近代医療が当然のように併存していて、入って片側の廊下を行くと伝統医療棟、もう片側を行くと近代医療棟になっていました。患者は自分の好きなように、伝統棟に行ったり近代棟に行ったりしています。さらに医師達も、こっちでうまく行かない時はあっちへといった感じで、簡単に「越境」しています。病院の入り口には大きなマニ車(一回転させるとお経を一回唱えたことになる)が置かれ、病院に入るときにそれを回して入ります。ある意味、人が死亡する確率の高い場所である病院に、お経を唱えながら入るという、あけっぴろげの態度に感心した覚えがあります。病院の外に出てみても、風力や水力を使って回しているマニ車、さらには太陽電池を使って回しているマニ車。つまり、自分の力で回す必要すらないのです。これらを含む様々な事例に「え?」という違和感を感じながらも、方法論や建前ではなく、目的や対象が中心に物事が回っている合理性に納得させられました。
ところで、心理学者が意識を説明する時、「氷山(iceberg)モデル」が用いられることがあります。私たちの意識は「氷山の一角」で、多くの部分は無意識として海面下に隠されている—というこのモデル自体は特に問題はないのですが、そこに「意識は明晰かつ合理的」、「無意識は曖昧で非合理的」というラベルがつくと、途端に陳腐かつ説明の役に立たないものになってしまいます。意識- 無意識の軸は、合理性と関連付けることはできません。というのも、合理性はあくまで「主観的意識から見た合理性」だからです。むしろ、個人の主観的体験の確からしさが周辺・末端(この文脈では無意識)から揺り動かされ、さらにその末端が発揮する合理性が垣間見えるときに、新しい認識が生まれる可能性があります。
私たち個人の文化・社会(個々の学問領域も含む)で合理的と思われていることが、実は狭い領域の中の慣習や言い訳にすぎなくて、未知の領域からの合理性に気付くときに、周辺・末端が先端につながる可能性が出てくるような気がします。そういえば、大学院の専攻名(注)には「学際」と入っているのに、「東京大学先端科学技術研究センター」の名称には「学際」が入っていないのには何か理由があるのでしょうか? ただ、これ以上名称が長くなってしまっても困ってしまいますけれど。

 
(2013年2月)
 

(注)先端研は東大附置研究所の中で唯一、大学院博士課程の専攻を持っています。正式名称は「東京大学大学院工学系研究科先端学際工学専攻」。

 
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