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3月3日 耳の日余話:大沼直紀客員教授に聞く

  • 先端研ニュース

2011年3月7日

3月3日の耳の日に寄せて、オーディオロジー(聴覚障害補償学)が専門の大沼直紀客員教授に話しを聞きました。
耳の日が制定されたのは今から55年前の1956年に遡ります。日本耳鼻咽喉科学会の中に耳だけを対象にする聴覚医学会を創設されたときに耳の日を決めようということになったのが発端です。3月3日となったのは、まずゴロがいいのと、3の字が耳介の形に似ているから。加えてその日は、アレクサンダー・グラハム・ベルの誕生日でもあるんですね。ベルという人は一般の方には電話の発明者として有名ですが、実は聾者、難聴者の教育に尽くしたことでも知られている人です。
きっかけはスピーチの指導などをしていたベルの父親の存在です。当時は上流階級の人たちを中心に、人を納得させる演説の仕方や声の出し方などにとても関心のある時代で、パーティーや社交界での評判を良くするためにベルの父親の元にきれいで上品な英語を学びに来るお客さんが大勢いました。オードリー・ヘップバーン主演で有名な「マイ・フェア・レディ」に出てくる言語学者のヒギンズ教授のモデルだったとも言われています。それだけでなく、今年のアカデミー賞を受賞した「英国王のスピーチ」は国王の吃音を見事に治していく言語聴覚士のように吃音の相談も受けていて、そういう父親だったので息子にもその仕事を継がせようとしたんですね。ベルの母親が難聴者だったことも影響していたと思います。
それでベルは16歳という若さで今でいう難聴学級、聞こえの教室のようなところの先生になります。彼はそれから75歳で亡くなるまで、自分は電話の発明者というよりは耳の聞こえない、言葉の話せない人の教師です、と自己紹介をするような人でした。30歳で電話を発明する頃には、アメリカで言葉を話せない人に言葉を教える教師としては超一流とされていて、アメリカ中の耳が聞こえない人、話せない人、吃音の人が彼を頼ってやってきました。その一人が後の奥さんになるメイベルの父親で、耳の聞こえない娘を手話だけで教育したくないので、話せるようにして欲しいとベルに依頼したんですね。ベルはまた、父親とアルファベットの記号を使った「視話法」を編み出し、それがゆくゆく言語治療の方法に取り入れられたり、唇の形を読む「口話法」に発展したわけなんです。
これだけでも十分、ベルの誕生日の3月3日を耳の日にする理由はありますが、もうひとつ決定的なのは、ベルがヘレン・ケラーの恩人であること。世界的に有名になったベルの元へ、ある資産家の夫妻がやってきて耳の聞こえない娘の相談を受けます。その指導を、ベルは多忙な自分に代わって教え子のサリバン先生に任せます。そのベルが紹介したサリバン先生によるヘレンへの指導が始まったのが3月3日だったのです。ヘレンは自叙伝""The Story of my Life""の扉に「グラハム・ベルにこの本を捧ぐ。グラハム・ベルは耳の聞こえない人に話すことを教え、耳の聞こえる人には電話を発明して、ロッキー山脈を越えて話ができるようにしてくれた人だ」と記し、ベルを自分の恩人と尊敬していました。
余談になりますが、ベルは電話を発明したのに電話嫌いでね(笑)。電話が無かった時代は、手紙のやりとりや直接会って話すことが当たり前だった。そこに電話が出てきたことで、電話のお蔭で耳の聞こえる人はどんどん情報が増え、聞こえない人との格差が出来てしまった。ベルは自分の作った電話が、自分が一生かけてきた聴覚障害者のためのものになっていないことを自分がよくわかっていて、妻と母親に申し訳ないものを作ってしまったと自分自身は電話を使わないし、好まなかったんです。
私自身がオーディオロジー研究に入るきっかけとなったのは、アメリカの大学の図書室で見たベルとヘレンとサリバン先生の写真です。人工内耳も補聴器も音声認識装置もなく、手話通訳が入らなくても三人が肉体そのもので会話している様子を見て、自分は父親の商売を継ぐのはやめようと決心しました。学生時代は部活に夢中で、卒業間際まで先のことを考えていませんでした。ただ、教育学部だったので宮城聾学校で教育実習をした時に10人くらいの実習生の代表で授業をしたんですね。その時、「矛盾という漢字はどうしてできたか」という課題に対して、辞書を調べたりするのではなくて、無言劇をやらせたんです。それが子どもたちには好評で、見ていた校長先生や他の先生にも評価していただき教員になったのがことの始まりです。
そこから、「耳が聞こえないからこういう状態になっている、小さいときから耳に言葉が入るようにしておけば問題は解決する」と感じて補聴器の世界に入りました。そのためには耳鼻科的なことも知らなくてはいけない、聴力検査もできないといけないし、赤ちゃん学も知らないといけない、いろんな知識をつけないといけない。それでアメリカにはオーディオロジーという学問がちゃんとあって、是非、これを日本に持って帰らなくてはと思ったんですね。こうして、子どもの難聴から今では高齢者の難聴にも関心が向いて感じることは、難聴者や難聴児をとりまく環境が上手く機能していないということ。耳の聞こえない人が補聴器をつけたり人工内耳をつけてもどうもうまくいかないのは、社会、環境の中にバリアーがフリーになっていない問題があって。聴覚障害者の中に解決策を求めるよりは、外の環境の遅れが問題だという意識で取り組んでいます。
先端研から発信できる可能性は大きいという気がしています。今まで自分がやってきた仕事も、ひとつのことをコツコツというよりはやりながらいろんな方向を見て、いろんな人を呼び込んだりして、接点を多くするやり方で思いが続いてきたところがあるから、先端研に似ているなと。先端研っていうのは、とんでもなくキョリの離れた専門もあれば、近い専門もあるから、これは絶対、何かがバリアフリーの中に育つんじゃないかと期待しています。


  • 写真1

    大沼先生と「きっかけ」の写真

  • 写真2

    「The Story of My Life」ヘレン・ケラー著<

  • 写真3

    小さな補聴器

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