はじめに   立花 隆

昨年10月、第一回報告書「不思議空間の歴史発掘」を出したところ、こちらがとまどうほど大きな反響があった。

あれから3ヶ月を経て、ようやくここに第二回報告書「謎のフィルム発見と白鴎會資料」を出すことができた。本当はもっと早く出す予定だったのだが、本文を読んでいただくとわかるが、この報告書を準備している間に、「謎のフィルム」の“謎”がどんどん解けていったので、途中で報告書をまとめるわけにはいかなくなってしまったのである。

実際、この報告書は昨年末に発行するつもりで、クリスマスの頃には、原稿が8割方できあがっていた。しかし、ちょうどそのあたりから謎が解けはじめたのである。そのため大幅な原稿書き直しや新原稿の挿入などがあって、こんなに遅れてしまったのである。

まず簡単に、この3ヶ月間の探検団の活動経過と、この報告書の内容紹介をしておく。

第一回報告のあと、何度かにわたって、学内のあちこちを見学してまわった。そのスケッチ風の記録が、第10章の「学内ツアー建物ルポ」である。その過程でいろいろ面白いものに出会ったのだが、今回は紙面の関係から話題を三つにしぼった。

一つは、例の長距離飛行世界記録(1938年)を狙った航研機のエンジンについてである。このエンジンの開発モデルが21号館で見つかったのである。

このエンジンについては、朝日新聞(11月8日夕刊)でも報じられたし、「科学朝日」新年号の「先端研探検-いたるところに『歴史』が埋まっている」でも書かれているから、すでにご存じの方も多いだろう。

この発見の経緯、発見物の内容について書かれているのが、第2章「駒場から世界へ」である。そこにも書かれていることだが、我々は、航研機のエンジンの開発に直接タッチなさっていた粟野誠一・日大名誉教授にお会いして、いろいろ貴重な話をうかがうことができた。

粟野先生の話で我々が驚いたのは、あの航研機のエンジンが、いま自動車の世界で燃費改善の決め手といわれる希薄燃焼(リーン・バーン)エンジンだったということである。

そのあたりのことについては、「文芸春秋」新年号の座談会「幻の『航研機』と日本の技術」で、粟野先生、斎藤茂太さん、それに私の3人でかなり語りあった。この座談会は、3時間にもわたったもので、誌面に収録しきれなかった話がだいぶあるので、同席していた探検団員が、そのあたりの話を拾ってまとめたのが、第3章「航空研裏話」である。

これとは別の機会の探検で、またまた思いがけないものを発見することになった。工作工場の2階の物置のようなところにあった一見革製のトランクのようなものが、実は1930年代の携帯用映写機で、その中に1巻の35ミリフィルムが入ったままになっていたのである(カラー口絵参照)。手でフィルムを少しほどいてかざしてみると、「落下試験(昭和6年11月)」というタイトルがあり、巨大なクレーンに飛行機がぶら下がっているところが見えた。「これはいったい何なのだろう」皆であれこれ想像をたくましくした。

なんとかこのフィルムを見てみたいと思ったが、なにせこれは60年以上も前のフィルムなので、そう簡単には見ることができない。これを何とか見られるようにするまでの悪戦苦闘の記録が、第4章「謎のフィルムの顛末」である。

さて、フィルムが復元され、落下試験に用いられた飛行機が第三義勇号という名の飛行艇であることもわかった。しかし、これはどういう飛行機なのか。どういう目的で行われた試験なのか。

そこのところがさっぱりわからなかった。実験の場所は広島にある海軍の広廠であるとフィルムにあったから海軍の飛行機にちがいないと思ったが、「日本海軍軍用機集」という本で調べてみても、該当する飛行機が見当たらない。実験目的も、何度も何度もクレーンで落とすばかりで、なんなのかよくわからない。構造的な強度試験なのか、落下したときの水のふるまいを調べているのか。よくわからないまま、ともかく試写会をやってみようということになった。

そのあたりのところまでが、第5章「よみがえった海軍第三義勇号」に書かれている。

古い飛行艇の関係者、海軍の関係者などにこのフィルムを見てもらえば、なんらかの事情を知る人を見つけることができるのではないかと思ったのである。実際、試写会を機に、事態は思いがけない展開をした。

試写会の観客の中に、たまたま、日本航空協会の調査部副部長をしている酒井正子さんという方が来てらして、協力を申し出てくれたのである。

日本航空協会というのは、内幸町に在る日本で唯一の航空に関する公益法人で、ここが運営している「航空図書館」には、あらゆる航空関連の資料が、戦前のものを含め、日本でいちばんそろっている。酒井さんは、「うちの資料をあたってみれば、きっと何かでてくるはず」と頼もしいことをいう。

そのことば通り、翌日から酒井さんから調査結果のファックスが次々に入りはじめた。まず、第三義勇号という飛行艇がどういう飛行機なのかがわかった。それがなぜ広廠にあったのかもわかった。要するに、作られたのは川崎だったが、広廠まで飛んだところで、故障で飛べなくなったのである。そして、どうせ飛べないならと、そこで破壊実験を行うことになったのである。当時の航空年鑑に、ちゃんとそういう実験が行われたむねの記述がある。そして、その実験には、東京大学航空研究所の関係者も立ちあったとある。それというのも、第三義勇号の設計に航空研究所の先生方が関係していたからである。このあたりの謎ときの過程を酒井さんに書いてもらったのが、第6章の「第三義勇飛行艇・海防義会・帝国飛行協会」である。

また、この第三義勇号を作った川崎航空機に当時勤めておられ、第三義勇号に乗ったこともあるという土井武夫さん(川崎重工技術顧問)のお話もうかがうことができたので、それを第8章におさめた。

酒井さんの謎ときはさらに進んで、白鴎會資料の謎にも及んだ。

白鴎會資料とは何かというと、25号館で発見された「航空決戰必勝の鍵」と題する長文の青焼きの文書(カラー口絵参照)である。読んでみると、これは航空研究所の所員が頼まれてどこかで講演をするために作った草稿らしい。読んでみると、当時の航空関係技術者が、戦局をどのように認識し、どのような観点から研究にいそしんでいたかがよくわかって面白いので、これを第11章として、そっくりそのまま復刻掲載してある。

内容は面白いのだが、これがそもそもどういう経緯で作られた文書なのかがもうひとつよくわからなかった。しかし、これまた、酒井さんの調査で次第に明らかになってきた。

ヒントは、「航空決戰必勝の鍵」の最初のくだりにある、「偶々大日本飛行協會で其の様な計画を御立てになり講師を委囑し度いとのお話を伺ひまして‥‥」という部分である。要するにこれは大日本飛行協会が主催しての講演会だったわけだ。ではその大日本飛行協会とは何なのか。これがなんと、酒井さんがいまいる日本航空協会の前身だったのである。大日本飛行協会のそのまた前身を帝国飛行協会という。帝国飛行協会は、大正時代に設立された航空思想、航空技術を広く推進するための民間団体だったが、昭和15年に、これが大日本飛行協会に改組されて、青少年を予備空軍戦力として育成するための国策機関になってしまうのである。東条内閣が成立すると、東条英樹その人が会長になり、青少年の航空熱をあおってどんどんパイロットを育成しようという広報宣伝活動と基礎訓練の実施機関になってしまうのである。

そのための年間予算が、民間の帝国飛行協会時代はわずか20万円であったのに、大日本帝国飛行協会になってからは、昭和17年で950万円、昭和18年にいたっては、1500万円も国から出されるようになったという。つまり、昭和18年8月の日付のある白鴎会資料の講演会というのは、大日本飛行協会のそのような広報宣伝活動の一環として企画されたものだったのである。

<1996年1月発行 先端研探検団 第二回報告書1頁 掲載>

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