学内ツアー 建物ルポ

知ってる人間は知っていたのかなあ?

平塚淳典・旭井亮一

探検団の学内ツアーについては、既に第一号で紹介済みであるが、その時にキャンパス内を周りつくしたわけではない。そこで探検団メンバーは、まだ訪れていないいくつかの空間を探訪してみた。

外国航空機のイラストがワサワサ(25号館)

ある夜のこと、先端研探検団3~4人で、いつものごとく13号館の前から連れ立って、ある建物に見学に向かった。今回は立花先生はいらっしゃらなかったので、学生だけで見学に行くことになった。22号館南手から西の方へ向かって延びている真っ暗な道をてくてく歩いてゆくと、一風変わった建物の前にやってきた。なんと言っても建物の構造自体がおかしな作りで、なんだかいびつな形をしている。古いマッキントッシュのPLUSを2個並べたような形といえば、イメージできる方もいるのではないだろうか。蔦やら草やらで覆われており、お化け屋敷という感じの建物だった。これが25号館である(カラー口絵参照)。見るからに、何か面白いものがありそう。

この建物を管理している方に入り口のドアを開けていただいて、中へ入ってみた。入り口付近の空間はかなり狭く、目に入るものは、二階に上がるためのコンクリート製の階段と横手にあるドアだけ。我々は、その階段を上がり上の階へとゆく。

上の階の部屋はかなり広いが、たまには使われているのだろうか、結構整理されており、きれいな室内。何か面白いものはないかと見回してみると、入って右手の奥の壁際に、長さ2メートル程度の青い筒状のものが重ねておかれてあった。

中をあけて見てみると、なにやら手触りのよい上等そうな紙にかかれたものが出てきた。広げてみると、びっしりと線や円が書き込まれており、何かの設計図のよう。しかも全て手書き。注釈は、日本語でなくきれいな英語で書かれている。かなりの年月を経ているはずなのに紙自体は色あせもせず、またインクの色も鮮明でとてもきれい。

さらに、「何かないかな」とみまわしてみると、部屋の隅の方に模造紙が重ねておいてあり、引っぱり出してみると、なにやらアメリカやイギリスの飛行機の絵が描いてある。さらに、ペラペラとめくってみると、驚いたことに、当時のアメリカの航空機生産量のチャートやら、グラフやらがでてきた。これはいったい何なんだろうか?最近のものなのかな?それにしては、使われている漢字が旧漢字だし・・・これが本当に戦争当時のものだとしたら、ここの人たちは、日本が戦力において劣っていることを明らかに知っており、敗戦を悟っていたのではないか?という気がした。さらに机の上にある段ボールを探してみると、何かの冊子がでてきた。これは何だろう?何か必勝の鍵とか書いてある。これら2つの資料はなんだか面白そうなので、改めて調べることにして、これらをお借りすることになった(「航空決戦必勝の鍵」参照)。

部屋の片隅には木製の飛行機のモデルがあった。これは当時、航研の所員であった糸川英夫氏が設計した戦闘機「鍾馗」のモデルだという。しばらくこの部屋を見て回った後、さらに上への階段があったので、上ってみることにした。階上は、二階の部屋と同じくらいの大きさの部屋だったが、それほど目新しいものはなく、ただベッドがおいてあるだけ。あまり関係はないが、ベッドは結構大きかった・・・自分の部屋のふとんよりも大きい。自分の研究室で、よく寝泊まりする人がいることをちょっと思い出して、理系の研究室はどこも一緒かな、と思ってしまった。

別の機会に、この建物の一階の部分も見学させていただいた。ここは工学部の人たちが今も使っており、比較的新しい1m程度の風洞がある。

実はこの棟、わが国最初の発動機用の消音運転室だということをご存じだろうか?ここで各種航研機エンジンの実験が行われたのだ。これと同じ造りの消音運転室は、この後あちこちで造られるようになったそうだ。

古い地図がドサドサ(13号館地下図書室)

我々はある日、13号館地下1階の図書室に潜入した。

まず、13号館の正面玄関を入ると目の前に、木の手すりのついた立派な階段がある。この階段の裏にまわって下の階に下りてみる。地下は、薄暗い通路が東西に走り、東側に今回我々が見学する図書室がある。ちなみに西側を突っ切ると、出口があり外にでられる。さて、図書室の中に入ってみよう。まず、一つ目の部屋があり、ここはどこにでもある図書館の書庫という雰囲気であり、面白そうなものはなかった。さらに奥に進むと二つ目の扉があり、そちらに行ってみることにする。二つ目の部屋も、それほど一つ目の部屋と変わりはないけれども、収蔵されているものは相当年代が古い英文の学術雑誌が多く、昭和初期のものもあった。あとは何かな?と見回してみると、部屋の奥の一角に、ひもで縛られた紙の束がおいてあった。これは何だろう?と思ってあけてみると、なんだか変な地図がでてきた。よく見ると、東京市何とかかんとかと書いてある。戦前の地図のようだ。眺めていると結構面白い。今と違って、東京の都心部は、山の手線内のみだったようだ。山の手線外は、みんな町や村になっている。地価はいくらくらいだったのだろうか?安いんだろうなあ、いいなあ、と勝手にうらやましがってしまった。そういえば、このキャンパスのあたりは、昔、近所に川があり、沼地や畑ばかりだったと誰かが言っていたような気がする。

さらにほかの地図を見てみると、戦時中の地図らしきものがドサドサとでてきた。何か中国の、食料生産地図とか、気候地図とか書いてある。伝染病の流行、衛生状況を示す地図もある。南洋諸島やオーストラリアの地図には資源地図などと書かれてあり、原油生産量などがかなり詳しく記されている。航空機と全く関係ないものなのになぜこんなものがあるのだろう。そのほかには、航空機の航路規制地図やら、自分にはよく訳が分からないものがいろいろでてきた。

そんなこんなで、13号館の地下室では、古い地図を見たのが、自分にとって一番の収穫だった。

航研時代の発動機がワンサカ(21号館)

池の上や下北沢から先端研に来る人は、西門から入ってくるだろうが、その時に入ってすぐ右手にある廃虚のような建物に気づくだろう。これが21号館である。

かつて、この場所で、エンジンの研究をやっていた。中をのぞいてみると、アンティークな木製の棚には、開発過程の部品類が、ほこりまみれではあるが、整理されて置かれていた。その他、大型のエンジン(発動機)が10台ほどならんでいた。我々は、これらの発動機の研究にたずさわっておられた、日本大学名誉教授の粟野誠一先生にお会いするチャンスに恵まれ、これらについて説明して頂いた。その時の見聞記は第二章にも収められているが、そこに収録されていない点を中心に、航研時代の発動機の研究にはどのようなものがあったのかをまとめてみる。

(1)空冷二重星型発動機の試作
空冷発動機の将来性に着目し、空冷単気筒2個を陸軍造兵省東京工省で試作し冷却に関する実験を行った。

(2)航空用2サイクルデーゼルエンジンの研究試作
航空用ディーゼル機関の必要性が燃料消費率の点から着目され、三菱重工の協力を得て作られた。

(3)航研長距離機用発動機
長距離機用として、当初は2サイクルのディーゼルを用いる予定であったが、重量が重く、信頼性もなかった。そのため陸軍で現用されていた川崎重工の「は一九二乙」の水冷12Vエンジンを改造利用することになった。長距離機ということもあり、燃料や潤滑油の消費が少ないことと冷却抵抗が少ないことが要求された。これを実現するため、その当時ではかなり高い圧縮比(7.3)を採用した。そのため燃料消費率は驚異的に下がり、実用性が確認され陸海軍で採用された。

(4)A-26長距離用発動機
A-26は空冷過給機付き発動機2基を装備した双発金属製機として計画された。これは中島飛行機の「ハ-115」を改造したものであった。燃料及び潤滑油の消費を下げることを目的として希薄混合比でやるのは、航研機と同じであったが、ここではさらに空燃比18~20という超希薄な混合比を採用していた。そして燃料消費率も175~200g/HPh以下となり、その結果A-26は、1942年に航続距離16435kmの世界記録を作った。

(5)研三高速機用発動機
超高速機用の液冷発動機が日本にはなかったため、ドイツからベンツのD.B.601-A型に最小限の改良を加えて、出力を増した。出力を増やし、同時にノッキングを防止するために、吸入管の温度をできるだけ低温にすることにし、高ブースト時にのみ、過給機ファンの前で自動的にメタノールを噴射する方法を採用した。これは、粟野先生が世界で初めて考案し、実用化したものである。
このあと、一般実用発動機にもメタノールの予備噴射と高ブースト時噴射の同時使用が広く取り入れられ、日本の発動機の出力向上に役だった。

この建物の発動機は、近い将来、博物館に展示されることになり、一般の人も目にすることができるようになるだろう。

銅像を知ってる?

先端研の本館の前に、木に隠れるようにして一つの銅像がある(カラー口絵参照)。裸体の男性が一本足で立ち、あたかもウルトラマンが変身する時のような、腕を頭の上に突き出すポーズをしている。この銅像、顔はきわめて恐ろしい表情をしており、学術研究機関の玄関口には全然似合っていない。

実は、この像は昭和10年3月に航研第五代所長の斯波忠三郎氏を記念して造られたものであり、東京帝国大学航空研究所の飛行機研究をシンボル化したものであるという。なるほどそういわれてみれば、裸体の男性の姿は飛行機が飛んでいる形のようにも見える。

ここで、前号の復習という意味も含めて、航研の歴史を簡単に述べる。東大航研の歴史は3期に分けることができる。 1918年~1931年の創業時代、1931年~1941年の成長発展の10年、そして、日米開戦から終戦までの5年間である。 1923年に所長に就任した斯波先生は、関東大震災を契機として、深川区中島にあった東大航研を現在のこの位置に再建した人である。そして1932年に和田小六氏が所長になるまで、外観だけではなく、内容も充実した設備をこのキャンパスに整えた先駆者である。ちなみに和田小六氏とは、探検団員の和田さんのおじいさんである。

まだあった知られざる空間

最後に、我々が存在すら知らなかった二つの場所を紹介しよう。まずは、56号館裏で駒場ロッジの横にある空き地をご存じだろうか?そこにはコンクリートが少し顔を出したような建物がある。

さて、そこはコンクリートの入り口があるだけで、すぐに下におりる階段になっている。その階段を地下約10mぐらいまで下りると、そこは窓がないから真っ暗。懐中電灯の光で見ると、6畳程度のコンクリートに囲まれた部屋が2つあるだけ。

実はこれは火薬庫である。大爆発してもいいように、階段を上がった扉の前には、土が3mぐらいの高さで盛ってあり、安全性を考えてある。ここは、宇宙研時代にロケットの研究に使う火薬が保管されていた場所だという。

次に、前述の消音運転室(25号館)の横にある、黒い木造の倉庫を紹介しよう。この倉庫の存在に気づく人は、先端研の住人でも少ないだろう。黒倉庫の中には、いらない自転車やバイクなどが積まれており、装置類なども沢山置かれている。一説によると、航研時代の各研究室の遺物もおいてあるらしい。入口には調査中と書いてあった。この建物について詳しいことをご存じの方は、ご一報頂きたい。

整理され積まれていた設計図
設計図は色あせもせず、鮮明であった。
戦闘機「鍾馗」のモデル
エンジン類とその部品が保存されていた21号館
25号館横の黒倉庫
駒場ロッジ横の火薬庫

<1996年1月発行 先端研探検団 第二回報告書27頁 掲載>

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