白鴎会文書をどう読むか 立花 隆

「はじめに」のところでちょっと述べたが、この文書は、大日本飛行協会が主催する講演会のための準備稿であったと思われる。オリジナルの文書は、手書き文書を青写真で焼いたものである。コピーの機械がなかった当時、青写真はコピー代わりに使われた。この草稿は、青写真で関係各所に回覧されたものと思われる。

「協会75年の歩み――帝国飛行協会から日本航空協会まで」によると、この時代の大日本飛行協会は、東条首相が名誉会長、逓信大臣が会長、陸軍中将が副会長になって、「国防航空第二陣を受け持つ実践機関」として、航空少年隊の結成、学生航空連盟の指導等、あるいは全国に訓練所を設けての飛行機搭乗員の大量育成、航空思想の普及などの活動を繰り広げていた。

だから、大日本飛行協会主催の講演会に、航研の研究者が招かれて、現今の航空戦争の状況についてしゃべるというのはわかる。

しかし、その講演会で本当にこの草稿通りのことが語られたのだろうか。私はそれは疑問だと思っている。理由は二つある。一つは、戦争の現状況について、かなりのことが語られているが、当時、一般向けの講演会で、これだけのことが語られていたと思えないということである。第二は、航空技術面での日本の立ち遅れがあまりにも率直に語られていることである。それは関係者の間では常識に属することだったかもしれないが、一般にはあまり知られていなかったことである。

当時は戦時であり、あらゆる情報が当局の厳重な管理下におかれていた。新聞、放送などのメディア情報はもちろんで、この講演が行われた昭和十八年の一月には、中野正剛の「戦時宰相論」という論説をのせたという理由で、朝日新聞が発禁になっている。雑誌や単行本の発禁処分はよくあることで、講演会などの集会における発言も、自由ではなかった。立ち会いの警察官が、「弁士中止!」と叫べば、発言を中止しなければならなかった。このような時代、戦争の現状況についての講演があるということになれば、当然に、講演内容に事前検閲があったと考えなければならない。この草稿が青写真という奇妙な形で保存されていたのも、そういう目的で作られたコピーだったからではないだろうか。

この文書を何人かの人に読んでもらったが、ほんとにこの通りのことが語られた講演会があったかどうかは疑問という声が多かった。たとえば、現代史家の半藤一利さんはこういう。

「ここに書かれていることは、事実関係からするとほぼ正しいんです。若干の誤りはありますけど、ほぼ正しい。しかしそれは今だからいえることでしてね。当時は一般の人は戦局が客観的にどう推移しているかなんて全然わからなかったんです。だから、これを書いた人は、戦局にかなり通じていたといえます。

当時の航空研究所には、軍からかなりの情報が入っていたんでしょう。ただそれを一般向けの講演会でいったかというと、疑問ですね。

この文章でおもしろいのは、これが書かれた昭和十八年八月という時期です。ちょうどこの時期に、日米の航空戦力が逆転してしまうんです。太平洋戦争がはじまってすぐは、真珠湾とマレー沖で日本の機動部隊が航空戦力の優位によって大戦果をあげる。この文書がいうように、ハワイでもマレー沖でも、米英の誇る巨大戦艦が、むらがる飛行機に撃沈されてしまって、『航空機か、戦艦か』という戦略家たちの議論に、事実をもって決着をつけてしまった。それはその通りなんです。そしてその背景には、日本の飛行機の技術的優位性があった。特にゼロ戦は優秀でした。初期は向かうところ敵なしでした。ここに、撃墜比率が1:10ないし1:20だったとありますが、確かにその通りだったんです。そして、アメリカがこの敗北にショックを受けて、航空機の大増産をはかり、戦艦中心の作戦から航空機中心の作戦に転換する。これもここに書かれているとおりです。はじめはその転換がなかなかうまくいかないんですが、昭和十八年になってその効果が出てくる。ここには、最近の撃墜比率が1:4だと書いてありますが、この時期ほとんど1:1になっていたはずです。会戦によっては逆転する場合だって出てきた。ゼロ戦の優位性がくずれてしまうんです」

ゼロ戦が優位性を失う背景に、一つの思いがけないできごとがあった。前年の昭和十七年六月に、アリューシャン列島でほとんど無傷のゼロ戦がアメリカ軍の手に入ってしまうのである。それまで無傷のゼロ戦はアメリカの手に入っていなかった。ゼロ戦は機体が敵の手に渡りそうな状況になったらパイロットは自爆することになっていたのである。しかし、とうとうアメリカは一機手に入れてしまう。そして、自分たちでゼロ戦を飛ばしてみて、徹底的に研究して、その弱点をつかむと同時に、それ以上の飛行機を作ろうとするわけである。アメリカのゼロ戦の対抗機といえば、まずグラマンF4Fワイルドキャットがあった。これは性能からいって、一対一でゼロ戦と空中戦をやったら必ず負ける。実際、戦争初期には次々に撃墜された。そこでまず、一対一の空中戦は絶対にやらないようにした。最低二対一で対抗するのだが、その場合、どういう作戦をとればよいかを捕獲したゼロ戦を使った模擬戦で戦術を徹底的に研究した。それが功を奏して昭和十七年後半のソロモン会戦あたりから、ゼロ戦とF4Fの撃墜率はどんどん接近してきたのである。さらに、昭和十八年になると、性能的にゼロ戦の上をいくF6Fヘルキャットが登場してきた。F6Fはゼロ戦のエンジンの二倍以上の二千馬力のエンジンを積み、速度でも高度でもゼロ戦を上まわっていた。

ゼロ戦の弱点は、装甲が弱いことだった。弱いというより事実上なかったのである。この文書にあるように、「我が空中戦士は戦闘性能の為に装甲を犠牲にして迄設計者に協力し、落下傘さへ持たずに一発でも多く弾丸を積み込む」という考えのもとにゼロ戦は設計されていたのである。

その弱みをつかれて、上から攻撃されると、簡単に撃墜された。

「いちばん不思議なことは、アメリカがいちはやく航空機中心の作戦に転換したのに、これからは航空決戦の時代だということをハワイ、マレー沖で身をもって示したはずの日本海軍が、その認識が足りず、相変わらず艦隊中心主義でいたために、ゼロ戦の後継機も育てられず、アメリカの新鋭機に対抗できなかったことです」
と半藤さんはいう。

この文書の筆者は、いまや戦争は航空中心の時代になったということ、アメリカはいち早くそちらの方向に方針を転換したこと、アメリカは飛び石ずたいに航空基地を前進させていって、日本本土を空襲し、生産拠点を伏滅することを目標に戦略を展開していること、日本への空襲路としては、北方、東方など四つのルートが考えられるが、現在アメリカが開発中の航続距離一万キロを越える新式爆撃機(B19としているが、これはB29の誤り)が完成すると、数トンの爆弾を積んで遠い基地からゆうゆうと本土爆撃にやってくるだろうなど、非常に的確な見通しをたてている。実際、この通りに戦争は展開し、南から飛び石ずたいに北上してきた米軍が、昭和十九年夏、サイパン、テニヤンのマリアナ諸島を陥落させるとB29による連日の本土空襲がはじまるのである。そして、初期の空爆目標は、すべて航空機生産の工場だった。

次に言及されているアメリカの飛行機の生産能力のほうはどうだろうか。この筆者がいうように、アメリカは、年間十二万機というような大目標をかかげて増産に邁進していたが、昭和十七年の時点では、まだ六万機くらいしか生産できなかったというのは、ほぼ正しい(実際はそれ以下だった)。しかし、そのあたりがアメリカの生産能力の限界だろうという見通しは外れていた。第一図を見ていただきたいが、実際には、昭和十八年九万機、昭和十九年十万機とまだまだ増えていくのである。それに対して日本の生産はごらんのように伸び悩み、アメリカとの差はどんどん開いていった。

撃墜比率を1:4に保つことができるなら、生産比率4:1でも互角に戦うことができるが、撃墜比率が1:1になったら、生産比率も1:1にもっていかなければ、ジリ貧になってしまう。現実には、戦争の後半、日本の飛行機はアメリカの飛行機に性能的に太刀打ちできなくなった上、材料不足から増産できなくなった。また、工場現場の生産要員の質の低下から不良品が続出するようになって、航空戦の勝敗はすでに戦場以外のところでついてしまうのである。

この文書の筆者はそのあたりの事情をすでに見通していたようである。時勢が時勢であるから、あからさまな表現はしていないが、

「少なくとも彼米国の生産の1/4だけは日本の方でも生産しなければ現有勢力を確保することはできないわけで、若し我が国の生産がこの数を割るようなことがあったらそれこそ重大な問題で、むしろこれ以上の生産をあげなければ到底必勝は期せられぬわけであります」
などと述べている。

航研の所員は軍の航空関係者や航空機会社の人とも深い関係があったから、この文章が仮定で書いている部分も実は現実をふまえて書いていた可能性が強い。すると、この文章は、すでに日本の生産が米国の四分の一を割りはじめているから必勝は期しがたいと読みかえることもできるわけである。

おそらく、この筆者は頭の中ではそれくらいのことを考えていたのではないだろうか。


  • 日米航空機生産比較 1941-1944(遠山茂樹他『新版昭和史』より)
  • このすぐ次のくだりのところに、今度は物量で負けても、精神力で勝つというくだりがくる。「生産力と云ふものは人と物との相乗積だと云はれております。而して今年春の帝国議会で東条首相が決戦算式と云ふことを云はれましたが、この決戦算式に於ては2に2を掛けて4にしてはいけないのです。2×2=4と云ふ算式なら国民学校一年生でも出来る。敵米英でも勿論出来るのです。即ち決戦算式は2×2を10、又は50、又場合によっては100とも出さなければいかんのです。この決戦算式の奇術を解決するものは即ち我が大和民族の精神力であります」

もちろん、2×2が50だの100になるわけはない。航研の研究者ならそれはわかりきっている。つまり、そうしなければ勝てないということは実際には勝てないということだとわかっていたはずである。しかし、そう書くわけにもいかないから、それを精神力によって可能にするのだと一応は書いているが、それを「決戦算式の奇術」と表現したあたりに、筆者の精一杯の批判が言外にこめられていると解釈すべきではないだろうか。「必勝の鍵」第2項の「航空機の質(技術)に関する問題」になると、筆者の批判はますます強烈になってくる。たとえば、「大和魂に発する強烈な精神力と、猛訓練に依る卓越せる技倆」を持ち上げはするが、「之だけでは科学戦に圧倒的勝利を獲得することは困難であります」
とはっきりいう。

また、日本の飛行機はアメリカに比べて量では負けるが、質が高いということは認めるが、次のようにもいう。

「質の問題につきましては前述の量の問題に比較致しまして、現在のところ誠に心強い次第でありますが、米英の科学技術の底力と云ふものは決して侮るべからざるものであり、又我が国の現在に於ける航空技術が戦前の彼らの学術に依存した向が多分にありまする事を考えます時、諸外国に於ける研究上の門戸が固く閉鎖されました今後に於きましては、真に大和民族独自の科学技術を確定し、この決戦が何年続きませうとも飽く迄現在に於ける技術的優秀性を確保致します事が航空決戦必勝の一つの鍵でありまして…」  
と、外国からの基礎的科学技術情報の流れがとだえてしまうと、日本の技術水準を保つことが非常にむずかしくなるのだということを言外に述べている。

第三項の「航空に関する科学技術研究機関の問題」になると、この問題点がさらにクリアになってくる。

まずアメリカの航空技術研究の中心になっているNACA(現在のNASAの前身)のすごさを紹介し(昭和十四年で、予算十万ドル、研究所員九百名、当時はその数倍)、それに比較して、日本の研究はどうかというと、次のようにいう。

「この点に於いては一歩も否数歩も彼に立ちおくれて居る現状であります。年数に於いても経費の点につきましても又規模の点に於きましても彼の十分の一にも及ばなかった有り様で、ほんの開戦直前まで彼らの学術及び科学技術に依存して居った向が多々あったのです。」

実際、日本の航空関連技術者が何か研究をはじめようと思ったら、まずNACAの論文集にあたって、そのテーマに関する論文を全部集めて読むところから研究をスタートさせるのが常だったのである。

日本の基礎研究外国依存体質はいまにはじまったことではなかったのである。当時、日本でほとんど唯一航空関係の基礎研究をやっていた航空研の研究者は所員、技師あわせて約五〇人だったから、ほんとうに規模からいってNACAの十分の一以下だったのである。研究水準もそれ以上に差がついていた。日本の航空研究がNACAのレポートに基礎を置いていることは、研究者の間では周知の事実だったから、NACAから最新の研究レポートが入って来なくなったら、日本の航空研究もすぐに頓座せざるをえないということは、航研の人間ならみな知っていた。粟野誠一氏は、「日本航空学術史」の中で、戦争がはじまったときの航研の研究者の心情を次のように書いている。

「(開戦の)八日の朝、号外の鈴の音と共に一大異変に接した多くの航空技術者の想いは『しまった』という一語に尽きようか。技術者はわれ等の技術に対する誇りを持つと共に、アメリカ航空技術の恐るべきことを十分に知っている」

だから、日本全国がハワイ、マレー沖の勝利にわきたち、楽観論に走ったときも、
「技術者の多くは、特に航研の所員は、今次の戦争がこのままで終わるべくもないことを予想し、軍並に政府に一大反撃に具える技術的装備の必要を進言したが容れられず、ついに二年の月日は空しく経過した。ガダルカナルの一戦を境として始まったアメリカの総反撃に一驚し、今さらながら『航空、航空』『一機でも多く前線へ』を合い言葉として技術者を鞭打った頃には、時既に遅しであった」

白鴎会文書が書かれたのは、まさにこの「時既に遅し」の時期だったのである。同文書は先の引用につづけて次のように書いている。

「諸外国の研究上の門戸は厳に閉鎖されてしまった今日、今こそ真に日本的学術、日本的科学技術を確立して迅速にこの方面に於ける劣勢を挽回し、さらに躍進して彼等先進の学術並に科学技術を圧倒し、一年にして日本は技術的に行きづまると楽観して居た彼等の自負心を徹底的に破粋することも航空決戦必勝の一つの鍵であります。即ちこの研究陣容に於いても亦10:1の比率を断然打ち破らねばなりません」

しかし、実際の展開はどうであったか。

粟野氏は次のように書いている。
「所員は東奔西走、これまでの二十年間に蓄えたあらゆるエネルギーを放出して各方面の援助に立向かった。しかしエネルギー放出のみではやがて枯渇の時がくる。(中略)

年と共に戦争の深刻な影響が次第に研究所にもおよび研究資材の入手難、嘱託、技官、職員、さては所員自身の相次ぐ応召に研究能率も次第に低下し、半身不随の状態となって思うような研究は次第に不可能となってきた」   

研究体制を拡充して、技術面での劣勢を挽回するなどということはとてもできる状態ではなかったのである。そしてついに終戦の年がくる。

「昭和二〇年の訪れとともにB29による本土空襲は本格化し、アメリカの航空戦力は圧倒的にわれ等の頭上に襲いかかった。わが国の産業設備は次々と破壊され、敗戦は時間の問題とさえなった。本研究所も空襲の激化と共に空襲対策や疎開などに追われ、二〇年(一九四五)二月からは、その機能は殆ど停止状態に近くなった。この頃、わが航空戦力も亦全く地に落ち、空に飛ぶ機なく、頼むは特攻隊一本槍という航空技術者として恥辱この上もない状態に達した」

そのような状態で、航研は終戦を迎えることになったのである。

さて、白鴎会文書から何を読みとるべきなのだろうか。

この文書は、「航空決戦必勝の鍵」を述べるという体裁をとりながら、じつは列挙された必勝の鍵が現実的にはどれもこれも危ない状態にあることを述べて、必勝どころか必敗の可能性すらあることをいわば“奴隷の言葉”で述べた文書であると思う。粟野氏の一文にあるように、航研の所員たちは、航空技術の面からいって、この戦争にはとても勝ち目がないことをはじめから知っていたのである。

彼らが本当になすべきだったことは、「時既に遅し」という時になってから、このようなオブラートに包んだ表現で、戦争に勝ち目なしの見通しを語ることでなく、“まだ間に合う”時にそれをストレートに語ることだったろう。  

粟野氏も次のように書いている。
「開戦前にわが国航空並に工業力の真の姿を政府首脳部に認識させることができず、又開戦後最初の二年間を航空対策について無為無策に過ごしてしまった点に航研も亦大きな責任があるものと考えられる」

先次の大戦から我々が学ぶべきことの一つは、科学技術に無知な為政者は国を誤つということである。しかし、そのような無知の責任は、必ずしも為政者の側だけにあるのではない。科学技術をになう側の人間が、国が誤つ前に、自ら積極的に発言して、為政者、政策決定者の誤れる認識を改めさせるべきなのである。科学技術の世界は、専門家でなければわからないことが多い。つまり、専門家が自分から発言しなければ、一般の人は誰も気がつかないことが多いのである。科学技術者が、自分が守備範囲としている領域で、国家的過ち、あるいは大きな社会的過ちが発生しそうなことが予見されるなら、その問題について自ら立ち上がり、たとえ一人だけでも、荒野にあって叫ぶ者のごとく、警告を発することが、これからの時代の、科学技術者のノブレス・オブリジェであるというべきであろう。

<1996年1月発行 先端研探検団 第二回報告書48頁 掲載>

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