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駒場から世界へ ~21号館に刻まれた航研機開発物語~

隅藏 康一(先端学際工学専攻・軽部研究室)

これからおはなしするのは、21号館に並んだ不思議な機械の一群が、我々の中でしだいに名前を獲得してゆき、秘められた歴史を語り始めるまでの過程を描いたドキュメンタリーである。

1.未解決の謎

  • 21号館
    21号館
  • 今思うと、四ヵ月ほど前の私は、ここ駒場第二キャンパスについて何も知らないに等しかった。その後私は、先端研探検団の一員として、私にとって「未知の領域」であった場所に立花先生や他のメンバーとともに足を踏み入れる機会を得た。探検団のメンバーのみでキャンパス内をめぐったときには、ごく身近な場所に実に多様な表情の空間が広がっていることを発見してただ驚くばかりで、我々のみの力ではそれ以上のことはよくわからなかった。そこで、技官の方々やこの地の歴史を知る先生方にお話をうかがってみたところ、それぞれの空間に受け継がれている戦前航空研以来の時の流れがしだいに明らかになってきた。そして「先端研探検団第一回報告」を刊行する十月上旬に至る頃には、このキャンパスに関する数々の興味深い事実が私の中に蓄積されていた。

    しかし、その頃になってもまだ解決されない謎が一つあった。それは、西門の近く(門から入って右手)に存在する21号館にまつわるものである。九月上旬にはじめてここを探訪し、内部を見回してみたところ、この建物のもっとも西門に近い部屋の光景(カラー口絵参照)は、さながら機械の見本市であった。何か発動機のような厳めしい物体が床に整然と並べられ、棚には機械の部品らしきものがところ狭しと置かれていた。これらはいったい何なのだろう?同行してくださった事務部の方も「何なんですかねえ」と首を傾げている。

    我々は、もしかしたらこれらは戦前に航空研究所で開発された航空機のエンジンかもしれないと考え、次なる展開に期待を膨らませた。ところが、現在も技官の方々がその場で仕事をなさっている工作工場や風洞とは異なり、誰に説明を求めたらよいのかがすぐにはわからなかった。そこで我々はまず、戦前にこの地で開発された航空機にはどのようなものがあるのかを文献から調査してみることにした。

21号館内部の配電盤
棚には謎の部品が並ぶ

2.記録に挑んだ航空機

1932年から1942年までの和田小六所長の時代は、航空研の歴史の中でもっとも華々しく研究活動が展開された時期といえるかもしれない。和田所長は、明治維新に活躍した木戸孝允の孫、第二次世界大戦中の内大臣木戸幸一侯爵の弟であり、研究能力ばかりでなく政治的手腕も優れた人物であった。彼の尽力により、 1935年に航空研究所受託試験および試作規定が官制として公布された。これ以来航空研は軍または民間からの委託研究を受けることができるようになり、それらとの共同プロジェクトを活発に行った。そうしたプロジェクト研究により、ここ駒場の地から世界記録を目指して航研機、航二、研三、およびA-26の四つの航空機が生み出された。

まず最初に1935年頃より試作が始められたのは、「航研機」の通称で知られる航空研究所長距離機であった。航研機は1938年の5月13日より3日間にわたって銚子・太田・平塚・木更津の三角周回飛行(29周)を行い、62時間22分49秒の連続飛行により、航続距離11,651kmの世界記録を達成した。「神風」が日本-ロンドン間の飛行時間の世界新記録を樹立した翌年のことであり、航空機に対する熱狂が高まる中で国威をかけて行われた記録飛行であった。この成功を受けて、航空研では1940年頃から「より高く、より速く、より遠く」を目標とした航空機の開発研究が研究所を挙げて行われた。その結果開発されたのが、「より高く」を目指した航二、メタノール噴射をわが国で初めて採用し「より速く」を目指した研三、および航研長距離機の後継機として「より遠く」を目指したA-26である。実際にA-26は、戦時中のため公認はされなかったものの、無着陸で16,435kmを飛び、世界記録を塗り替えている。

はたして21号館の物体群は、これらの航空機と関係のあるものなのだろうか?その答えを知るための有力な手がかりが、ある日我々のもとに寄せられた。

3.谷田先生からの手紙

10月17日、東海大学名誉教授の谷田好通先生より、次のような手紙が資料とともにファックスで我々のもとに送られてきた。以下はその一部の抜粋である。

「『先端研探検団:第1回報告』をお送りいただきまして有難うございました。航研時代から関係したものとして感慨深く拝見いたしました。(中略)

私は原動機出身ですが、航研機のエンジン等をご存知の曽田範宗先生、八田桂三先生も今年相ついで亡くなられ、歴史を知る方が少なくなってしまいました。添付資料の作成にご協力いただいた粟野誠一先生(戦前まで航研、戦後日大)、北村菊男氏(元・八田研助手)が歴史を知る数少ない方々です。

先端研の22号館、25号館(エンジンテストセル)等が原動機関係の建物でしたが、航研機関係のエンジンの遺物が21号館にまとめておいてあります。(中略)現在羽田か各務原の航空博物館に引き取ってもらうよう交渉中です。その関係者の方々が本日(10/17)午後駒場に来られる予定になっております。もしご関心がおありでしたら、一緒にご覧いただけるかと思います。バイオメカニクス分野の渡部技官にご連絡下さい。(以下略)」

この手紙により、我々の頭の中で、文献に記された航研機と21号館の物体がはじめて一つにつながることとなったのである。

その日の午後、粟野誠一先生をはじめとする7人の方々が13号館にいらっしゃった。近いうちに21号館が取り壊しになると聞き、どの資料を保存すべきかを再検討するためにここにお集まりになったのだ。

調査団のみなさんのお話により、新たに次のようなことが明らかになった。戦前の航空研時代、ここ21号館は発動機部門がエンジンの運転場として使っていた場所であった、時は流れて、 1987年に先端研が発足する。キャンパスの大がかりな模様替えが行われ、その際に散逸を防ぐ目的で、発動機関係の保存すべき資料が21号館に移された。こうしてあの「機械の見本市」のような光景が生まれるに至ったのである。

この一日で、我々の21号館をめぐる探検は急展開をみせたが、まだ完全に謎が解けたわけではなかった。それぞれの物体がいったい何であるのかを詳しく知るまでは、追究の手をゆるめることはできない。ところが、谷田先生が送ってくださった資料は、専門用語が多いため一見しただけではあまりよくわからなかった。また、この日の調査団の方々の調査対象はキャンパス内全域にわたっており、21号館に長く引き留めて説明を乞うわけにもいかない。そこで我々は、日を改めて粟野先生に詳しいお話をうかがうことにした。

4.試作エンジンに刻まれた航研機開発物語


  • 粟野先生にお話をうかがう
  • 日大名誉教授の粟野先生は、 1934年から終戦まで航空研の発動機部で研究をなさり、主に研三のエンジン開発に関与なさった。粟野先生に再び21号館まで足を運んでいただいたのは10月31日、最初にあの物体群と出会ってからおよそ2ヵ月後の日であった。我々の謎解きは、いよいよ最終局面に向かおうとしていた。

    粟野先生は、21号館の床に並んだ物体一つ一つの説明を、右から順に始められた。

    当時、基礎研究は航空研、製造は民間という役割分担がなされていたので、ここにあるエンジンは実際の飛行に用いられたものではなく、どれもみな開発試験用エンジンであるとのこと。最初のいくつかは、航研機の単筒試験用の試作エンジンである。当時の航空機のエンジンは12シリンダーだったが、開発の初期段階では、単筒でエンジンの性能を試験したのだ。

これらのエンジンは、まさしく航研機エンジンの開発ストーリーを物語っている。航研機は、長距離飛行を目標としたので、一定量の燃料で長い距離を飛べなくてはならない。そこで、当初は燃費の良いディーゼルエンジンを積むことが考えられた。ところが、ディーゼルは信頼性が低く重量もあることから、開発の途中でBMW社のものをモデルとしたガソリンエンジンに切り替えられた。そして燃費をよくするための工夫として、希薄燃焼(リーンバーン)方式が採用された。これは、大量の空気に少量の燃料を混合した状態で燃焼させる方式である。燃焼の際の空気:燃料比が当時の標準的な航空機のエンジンで9:1ほどだったのに対して、航研機エンジンでは、完全燃焼の混合比15:1を超えて、18:1という比率で燃焼が行われた。この値は近年やっと自動車で実現できるようになったものであり、当時の技術水準の高さを物語っている。

そのとなりに並んでいるのは、ハイドリック・ダイナメーターという装置である。これは、水圧をかけてエンジンの出力(トルク)を測定するものであり、航研機試作エンジンの性能試験もこれで行ったに違いない。その次のものは、航研機エンジンの排気弁を冷却するためのルーツブロアである。2サイクルディーゼル用の掃風機もあった。

高速ディーゼル・テストエンジン
航研機用液冷単気筒エンジン(BMW社製のものを改造)
ハイドリック・ダイナメーター
ルーツブロア
2サイクルディーゼル用掃風機
CFRエンジン

長距離飛行記録を樹立することを目指して、エンジンだけでなく燃料の研究も行われた。CFRエンジンは,燃料のオクタン価(アンチノック性を表す指数)を測定するためのものであり、ここにあるのが日本の一号機かもしれないとのこと。ちなみに航研機の燃料には、永井B燃料というものが用いられ、そのオクタン価は94と、現在の高級な自動車用ガソリンと同等の値であった。

航研機の機体は、終戦後占領軍の手によって羽田の池の中に投げ込まれ、その場所が今は横風用のB滑走路になっている。数年後にそのB滑走路を取り壊す予定があり、その時に航研機を掘り出そうという計画もあるという。

5.現代に伝わる研究者の息吹

  • 中島三連式気化器
    中島三連式気化器
  • 21号館には、航研機関連のもののみならず、航二、研三、A-26のエンジンの開発研究の足跡を示すものもある。棚に並べられた部品に目を移すと、A-26空冷エンジンに使われた中島三連式気化器や、研三の水冷エンジンシリンダーなどが目に留まった。

    棚の下の方の段には、今や歴史的なオートバイ用エンジンとして語られている、くろがね4サイクルエンジンもあった。なぜ航空研にオートバイのエンジンがあったのだろうか。これは、排気弁にゴミが付着するとエンジンが止まることに着目し、酸化剤を散布して敵機のエンジンを止めるという計画があり、そのための実験に用いていたものだそうである。実験はうまくいったが、戦争末期の研究だったためか実用までは行かなかったようだ。

別の棚には、メタノール噴射装置があった。これは,粟野先生が中心となって開発し、研三で世界に先駆けて採用されたものである。メタノールは、アンチノック性があり、また吸気の温度をその潜熱で下げることができる、そこで、必要なときに自動的にメタノールを噴射することにより、急激に力を出すことが可能となるのである。これは後に他の軍用機にも広く採用されたが、戦後になってこのメタノールが大量に放出され、飲んで目が不自由になった人が少なからず出たのは残念なことである。

ひととおり説明を終えると、粟野先生はお手持ちの袋から手のひらサイズの機械を取り出し、見せてくださった。これは中西不二夫先生が開発したカメラであり、エンジンのシリンダーヘッドにとりつけて油圧の変動を記録したという。

我々は21号館をあとにし、工学部の管轄である25号館へと向かった。これもまた原動機部門のゆかりの地である。日本初の、エンジンの消音運転場であり、北側(22号館側)では液冷エンジンの、南側(テニスコート側)では空冷エンジンの燃焼試験が行われた、南側から見ると、この建物は中央が不思議な形にくぼんでいるが、これは空気を取り込むためのスペースだということだ。  この建物には、一つの悲しいエピソードが秘められている。A-26の開発研究は、朝日新聞社と共同で行われており、社員の方が航空研に出入りして研究していた。ある日この場所で、試験中にエンジンが突然バーストし、近くに立っていた朝日の方が亡くなってしまうという事故がおきた。力ファンのモーターが逆に取り付けられていて、逆回りしたのが原因と考えられた。

このキャンパスには、世界記録に挑戦し日夜研究に精を出した研究者の息吹が、そしてまた研究に励み研究に殉じた研究者の魂までもが宿っているような気がする。

6.エンジン群の行方

こうして、21号館のエンジン・機械群は、50年の時を越えて我々に航空研での航空機の開発史を語りかけ始めた。しかし、その日の午後にはもう梱包され、その2日後に新宿の国立科学博物館分館に一時的に移された。

互いをよく知ったあとで本当の出会いが始まるとするなら、まさに一瞬の出会いであった。しかし、こうした貴重な資料は、一つの大学のみの宝とするよりは、市民が親しむことのできる形で保存すべきであるからそれも仕方なかろう。

来年以降の保管場所としては、岐阜県各務原に発足する市立の航空博物館が有力である。さらに、現在いくつかの新しい航空博物館の構想がある。羽田に航空宇宙科学館を作ろうという動きがあり、その推進会議(斎藤茂太会長)が結成され活動しているほか、日本航空宇宙工業会にも博物館構想があり、資料調査委員会(粟野誠一委員長)が発足した。それらの博物館が完成したおりには、いくつかのものはそこに移され展示されることになるだろう。

我々が出会ったあのエンジン群は、今後末永く技術の歴史を語り続けることだろう。こうして私の思いは未来へと飛ぶ。数十年後の若者が博物館で航研機の試作エンジンと対面したとき、戦前航空研とその博物館の間をつなぐブラックボックスに対していかなる説明がなされているだろうか。我々の活動を記したこの文献が、そのための資料となっていれば幸いである。

立花隆先生と粟野誠一先生
こうした可変抵抗器なども一部は博物館行きとなった

<1996年1月発行 先端研探検団 第二回報告書3頁 掲載>

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