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航空研裏話
北野 誠、和田 昭久
昭和9年、「より遠く、より高く、より速く」という目標のもと、数多くの人々が世界を目指した技術集団があった。東京帝国大学航空研究所、通称「航研」である。時代は第二次世界大戦直前から終戦までの十数年、飛行機の重要性が認識され、それまでの航空先進国からの遅れを取りもどそうと日本の航空界がさまざまな試みに挑戦した時期である。例えば昭和12年の「神風」号(朝日新聞社)の東京~パリ間の飛行時間記録樹立、昭和13年航研機の長距離飛行の世界記録樹立、研三高速機による時速700km/hへの挑戦等々枚挙にいとまがない。
戦後50年を経過して、当時を知る人々も少なくなっている。今回、航空研を史実としてではなく、実際に研究者として数々の飛行機開発に携わった粟野誠一日本大学名誉教授 (当時、発動機部)、飛行機マニアだったという斉藤茂太氏(羽田航空宇宙科学館推進会議会長)、立花隆先端研探検団長の座談会が「文芸春秋」誌(新年特別号”幻の「航研機」と日本の技術”)で行われたが、それに我々も同席するという機会に恵まれた。座談会は3時間にもわたり、「文芸春秋」誌では紙数が少なかったため、いろいろと割愛されてしまったポイントもある。ここでは、そこに書かれなかったことや資料からの補足を中心に、「航空研裏話」と題していくつか御紹介しよう。
BMWエンジンの改造
航研機のエンジンは、川崎特殊液冷700馬力発動機であるが、実はこれはBMWエンジンの改良型なのである。改良といっても、「形だけは残った」というほどの大改造を施している。では、どのような改良がおこなわれたのだろうか。
- 粟野
- まず、スーパーチャージャー(過給機)は取ってしまいました。あとは、バルブや、吸気弁の形も変えました。気化器は、中島の二連式に替えました。これで、現在自動車に活用されているリーンバーン(lean-burn)を実現しました。これをやると、ディストリビューションが悪くなりますのでインテークマニフォールド(吸気管)の形を工夫して、排気弁の冷却のためにルーツブロアを付けて・・。ブロアは、富塚清教授の発案でした。
- 斉藤
- 写真等で拝見しますと冷却機が小さいですね。
- 粟野
- 水冷式の冷却機が空気抵抗を増やすので、温度を120度まで上げてプレストン冷却に変えました。減速機もプロペラ効率を上げるためにファードマンのものを使いました。
省エネ、目標(長距離飛行)に向けた作り込みは、まさに改良型日本技術の真骨頂といえるだろう。
航研機の記録飛行
航研機の記録飛行は昭和13年5月13日から三日間にわたって、木更津~銚子~太田~平塚(一周401.759km)の周回空路を29周して達成された。無着陸で総距離11,651.001kmを飛行し世界記録となった。当時を伝えるエピソードを紹介しよう。
- 立花
- 航研機は結局三日間飛び続けたわけですね。その間、ラジオで中継していたんですか?
- 粟野
- いえ、あのときは通信機の重量を減らそうということで通信筒を使っていました。上から落としたり、落とせないときには、ビラを出して知らせるというようにしていました。
ここで、当時の新聞から関連記事を抜粋してみる。まず5月14日の東京日々新聞の見出しから、「おゝ航研機飛ぶ」と題して離陸時の写真と一緒に記録飛行の開始を伝えている。5月15日になると「月明の大空に悠々 航研機快翔を続く 世紀の翼 目指す世界記録」が4段抜きで目を奪う。そして5月16日には「航研機・遂に世界記録を確立」と銘うって一面の半分をさいて飛行中の航研機の写真を掲載している。当時日本はすでに支那事変に突入しており、「漢口、夜間の爆撃」というような記事と一緒に記録飛行の様子が記されているのを見ると、その大袈裟な表現とあいまって時代を感じさせられる。
航研機のエンジン
終戦時、航研機の本体は米軍の手によって現在の羽田B滑走路のあたりに埋められてしまったようである。では、エンジンはどうなったのだろうか。
- 斉藤
- (航研機を開発していた頃は)日本の国力が上り坂な時です。昭和12年には零戦の設計が始まっていて、これは昭和15年に完成しました。ちょうどイギリスのスピットファイア(戦闘機、パドル・オブ・ブリテンで有名)と同じ頃です。ところで、航研機のエンジンはどこかに保存されているんですか?
- 粟野
- そんなことができるんですか。
- 斉藤
- できるらしい。
太平洋戦争中は、燃料は椰子油やテレピン油に似た代替え燃料を用いた。潤滑油もこれと同様に動植物油を加工して、鉱物油と同等以上の性能を引き出したという。このために、航研では1938年に不飽和脂肪油を原料とした航空潤滑油の製造設備をつくっている。
東京初空襲
話しはすこしとぶが、粟野氏、斉藤氏とも昭和17年の東京初空襲を経験している。空襲は、探検団をはじめ多くの人々にとって歴史上の話となりつつあるが、リアルな体験談として興味深いのですこし紹介する。
- 粟野
- 東京初空襲の時、僕は市ヶ谷の陸軍省にいっていたんです。エンジニアがみな満州とかに兵隊にとられてしまうので、それでは日本はダメになってしまうというようなことを誰かは忘れましたが偉い人のところへ話しにいったんです。それで話しをした途端に空襲になっちゃいました。高射砲を撃つんですが、落ちてくるのは砲弾の殼だけでしたね。
- 斉藤
- 僕はあの日、五反田の駅前にいました。B-25(米軍の爆撃機)を見ましたよ。そのあとを陸軍の固定脚の九七式戦闘機が機関銃を撃ちながら追いかけていく。でも、結局逃げられちゃってほとんど撃墜できなかったんですね。
- 立花
- 高度はどれくらいだったんですか
- 斉藤
- 低かったですね。すぐそこに見えるんだから。ただどこから来たのかわからなくて、僕はウラジオストック(旧ソ連領)だと思っていました。まさか、空母に陸軍機を積んでくるとは夢にも思わなかった。実にアメリカ的な大冒険でしたね。米国でもルーズベルト大統領が新聞記者から、どこから爆撃機がきたかをたずねられて、”シャングリラ”と答えていました。爆撃機の発進地を秘密にしておきたかったのでしょうが、うまいこと言ったものですね。
- 立花
- 軍部は大ショックでしょうね。
- 斉藤
- そうですね。わざわざ南方から戦闘機を何個中隊か引き上げましたからね。ひいてはミッドウェー海戦にまでむすびつくわけです。
歴史の教科書を読むのとはまた違った、経験談の持つリアリティが伝わってくる。
海軍の秘密報告
大正7年、航空研究所が設立されてから飛行機についていろいろな研究や実験が行われてきた。しかし、いずれも机上の検討であったり、ある条件下での結果に過ぎず実際の飛行機に応用したときに有効かどうか確かではなかった。一方、政府も国家的見地から航空機技術の重要性を認識し始めていた。そこで、昭和7年、航空研究所は、実際の飛行機を造るという開発研究に研究所の総力を挙げることになる。粟野先生は、この研究が本格的にスタートした昭和9年に航空研究所にお入りになった。
- 立花
- 当時はどの国のデータが参考になっていましたか。
- 粟野
- NACA、いまのNASAですね。NACAのレポートしか役に立たないと思っていました。他のね、ドイツとか出ていましたけど、だいたい日本じゃアメリカですね。
- 立花
- そういうデータは戦争ぎりぎりまで入ってきてたんですか。
- 粟野
- ええ、もうぎりぎりまで、それで開戦と同時にパタッと。それはいま航研に残っていますかね、NACAのテクニカルレポートと、NACAのレポート。それをちょっと調べれば。
- 立花
- 図書館の地下に一番古いのがあるんですね。
- 粟野
- それともう一つはね、航研に残っている可能性があるのは海軍の秘密報告ですよ。赤い表紙のは秘密ですからね。秘密報告はみんなきてたんですから、焼かなければどこかに残ってるはずなんですがね。
当時の航空技術のお手本が、戦争敵対国のアメリカであったのは興味深い。またその資料が現在もここに保存されているか、現在探検団で調査中である。(ちなみに先端研図書館地下の蔵書には該当文書はなかった。)
飛行少年と戦争
昭和初期、日本は、次第に戦争への道を歩み始める頃であるが、飛行機にとっても幕開けの時期であった。この頃の少年にとって好奇心をそそる飛行機を知ることは、危険と裏腹だったようである。
- 立花
- あの頃『飛行少年』とかいう雑誌がありましたね。あれは世界中の飛行機を詳しく紹介してたんですか。
- 斉藤
- そうですね。我々マニアが読んでいたのは『海と空』という雑誌。これは専門雑誌でしたけどね、『海と空』の連中が憲兵隊に引っ掛かっちゃった。ぼくも連れて行かれた。それは昭和11年頃。
- 立花
- それは何でですか。
- 斉藤
- お前さん、憲兵隊に連れて行くからというから、じゃ、例の治安維持法かなんかだと思ったら、そうじゃなくて飛行機だって。その雑誌の愛読者欄で青少年が情報交換するわけ。何を見たとか、どこに何が飛んでたとか。その連中がイモズル式にザーと連れて行かれた。それで拘置はされないんだけど、明日また来なさいなんて一度家に帰されて、で、また翌朝取り調べが始まるんです。でもね臭い飯食ったというんじゃなくて優遇されましたね、天丼食わせてくれた。(笑)
- 立花
- 要するに、何処でどういう飛行機見たという、情報交換する事自体がいけないんですか。
- 斉藤
- そう。アメリカに比べりゃ大した飛行機じゃないのに、まだ発表していないというだけで。そんな情報は全部入っちゃうのよね。それで捕まちゃったけど結局、起訴にはなりませんでしたね。愛国少年の何とかっていう‥‥‥。(笑) で、憲兵に飛行機の講義なんかして、帰ってきた。(笑) とにかくね、もう秘密主義もいいところでね。アメリカは堂々たるもんで、まだ試作機の頃からどんどん発表するし、要するに劣等感ですね。秘密というのは劣等感ですよ。
「神風」そして「航研機」
昭和10年代、日本の航空技術力を世界に示す出来事が2つあった。一つは昭和12年に熱狂的規模で実施された「神風」による英国訪問飛行の成功である。当時フランス航空省が、東京-パリ間100時間以内の飛行記録を出したものに懸賞金を出していて、フランスの航空人が幾度も挑戦し失敗していた。それを日本人が成功させたのだから、国際的注目を浴びた。もう一つが昭和13年、航研機による11,651キロメータ無着陸飛行の成功である。この二つは大喝采をうけて新聞紙面をにぎわした。
- 斉藤
- 『神風』ね、昭和12年。ぼくは朝日新聞が公開した実物を見たんですよ。
- 粟野
- 羽田かどっかでやったんじゃないですか。
- 斉藤
- あれは、陸軍が開発した飛行機を朝日新聞社が譲り受けて行ったんですよ。ぼくはその頃、イギリスの『エビエーション』とか『フライト』なんて雑誌に『神風』の詳細な設計図がでたのを見て驚きました。日本人が知らないのに、向こうでは何でも知っているんですよ。
- 立花
- しかし、『神風』の時は、あの当時の新聞を見ると熱狂的ですね。
- 斉藤
- もう熱狂的ですね。応援歌まででてきてね。ぽくもお小遣い倹約して『神風』の東京-ロンドン間の飛行時間を当てる懸賞に応募したんだけども、全然当たらなかった。九十何時間というのは世界記録ですからね。
- 立花
- 『神風』の両飛行士が帰ってきた時の朝日新聞社前の大群衆の写真がありますね。ものすごい人数ですね。
- 斉藤
- 僕なんか、朝日の格納庫での歓迎会にね、どうやったのか覚えていないんだけども忍び込んでその席上に参加しましたね。招待状なんて僕の処にくるはずがありませんからきっと潜り込んだんですよね。
- 立花
- そうすると、『神風』に続いて航研機の世界記録でもワーッと・・。
- 斉藤
- そう、あの頃は朝日新聞社や毎日新聞社が争ってずいぶんいろんなことやっていましたね。でも、朝日の航空部がトップを切っていたんですね。
- 粟野
- この『航研機』で世界記録を作ったパイロットは陸軍の藤田さんですね。藤田さんは、その後陸軍がイタリアから購入した飛行機を中国で操縦していて敵地に着陸し自決されたんですね。それで藤田さんのお葬式を立川の格納庫でやったんだけれども、そのとき『航研機』が飛んできて上空を旋回飛行してくれたんです。それが、『神風』でパリ~東京間速度記録を打ち立てた朝日の飯沼飛行士なんですよ。ちょうどお葬式やっているとき僕は見て、お葬式やっているのにどうして見えたのかと、不思議に思ったんですけどね。大変な低空飛行でした。それが航研機の飛び納めです。
- 立花
- 藤田さんというのは、藤田雄蔵中佐ですね。また、朝日の飯沼さんは、委託学生として陸軍士官学校に入り、その時の教官が藤田中佐だったという因縁があるんですよね。
世界記録を打ち立てた、「神風」と「航研機」。この飛行機を操縦したのは師弟関係にあった二人のパイロット。この二人は、操縦技術のみならずパイオニア精神もまた共有していたのかもしれない。
編集後記
戦前の航空研究所から始まって現在の先端研に至るまで、ここの住人は変われど、この研究所が一貫して持っていた理念が科学を研究者の自由意志に基づき探求するという雰囲気であった。ただ、昭和の初頭のある時期だけこの研究所はひとつの目標に向かってその力を結集することになる。それが航研機に代表される飛行機の開発である。その成果は昭和14年の無着陸飛行世界記録で花咲くわけであるが、昭和7年の開発スタートからわずか7年という驚異的なはやさで達成されたことになる。この時代を飛行機研究者と飛行少年という視点から語っていただいた。お二人とも青少年に戻ったような情熱でお話されていたのが忘れられない。まさに当時を飛行しておられるような、そんな時間であった。
- 「東京朝日新聞」の当時の見出しより
<1996年1月発行 先端研探検団 第二回報告書9頁掲載>