謎のフィルムの顛末

棚田 梓(廣松研)

東大先端研が東京帝国大学附属航空研究所であった頃の昭和6年(1931年)に撮影された35ミリフィルムがみつかった。17号館(正面右手)工作工場の倉庫からである。縦70センチ横60センチほどの革トランクの中にワンロール、リールに巻かれて眠るように入っていた。

興奮した探検団は素手でこれを取り出し、目をこらしてフィルムを懐中電灯にかざし、声をかけながらロールを解き進んだ。最初のコマには「昭和6年落下試験」とあり、飛行艇をクレーンで吊りあげているカットがずっと続いている。何かが映っていることは確かだ。そうとわかると、見たくて見たくていてもたってもいられなくなった。立花先生はとりわけトーンが高く、「なんとかして見たいな、どうしたら見られるかな」と口走っている。

気がつくと、倉庫のフロア一に枯葉のようにフィルムをまき散らしていた。よく見るとこの革トランクはポータブルの映写機である。フィルム送り出しと巻きとりの機能があり、電球もある。しかし、この古めかしいほこりだらけの映写機のコードをコンセントに差し込んでみようというほど私たちは大胆ではない。取り扱いには気をつけないと取り返しのつかないことになりそうだ。探検団の活動がはじまって以来、出てくるものはすべて手作りで、時の先人たちが才能と財力の限りを尽くしたと思われるものばかりである。仕事場に無造作にころがっている小さな椅子一つでもよくみると、革のクッションで鋲がしっかり打ってある。ほこりをはらってアンティークショップのウィンドウに飾ってみたい衝動にかられたりもするのだ。一時が万事これだから、このフィルムにも技術と意味がこめられているに違いない。映像にもしものことがあれば決して復元することはできないので、どこか専門家のいるスタジオで試写することを考えることにした。

映像の世界に20年余りいてこの10月先端研に社会人入学した私は、探検団のなかでは事情がわかるといえるかもしれないので、この件は私が引き受けることになった。

先ず最初に、かって外国のPAL方式の映像を日本で見られるようにNTSC方式に変換してもらったことのあるエクサインターナショナルに電話をした。電話を受けてくれたのは、代表取締役の石黒さんである。事情を話すと「東大の先端研からみつかったのならきっと学術的に貴重なものでしょう。学生さんの研究のためならうちは喜んでスタジオを無料で提供しますよ。日時が決ったら連絡してください」と言ってくださった。

その返事を伝えると探検団は期待で胸がいっぱいになり、ワクワクする気持を抑えることができなくなった。立花先生は「いますぐ行きたい、これから見たい、何とか予約してもらえないか」とまるで子供のようである。とうとうその日の夕方、車に皮トランクを積み込んで探検団ほとんど全員で天現寺のエクサに押しかけた。11月10日のことである。

中を開いた石黒さんは「あ、これはだめだ。プロジェクターにかけられない。可燃性だから火が出ちゃう」保存状態がいいというのですぐ試写できると思ったが、このフィルムはセルロイドなので発火する危険性があるのだそうである。昔は上映中に温度が上がり、止まって溶けはじめることがよくあったそうである。また、保存環境次第では火事になることもあるのだという。フィルムに可燃性と不燃性があることを、私を含む探検団はその日はじめて知った。

せいぜい10分ほどの「落下試験」の映像は、不燃化という複製作業をほどこさないと見ることができないのである。いったいその作業にいくら経費がかかるのだろうか、探検団には第一回の小冊子発行で集めたカンパ金くらいしかないのである。いや、金のことはともかくとして、不燃化作業をいまだにやっているところはないそうである。

35ミリ、16ミリを問わず映画フィルムを現像するところは、イマジカ、東京現像所、東映化工、ソニーPCL、ヨコシネDAIの大手5社である。しかし、この5社は白黒フィルムの不燃化作業ができないのである。なぜなら、そのための現像機が20メートルほどもある巨大で特殊なものだからである。当然作業プロセス、薬品なども違うので、たまにしか発注のない仕事に備えて大きな機械や、技術者をスタンバイさせることはしないのであろう。

「どうしても見たい」という立花先生と探検団の願いが通じて、とうとう日本で唯一つ、白黒フィルム不燃化作業をしている工房をつきとめることができた。西武池袋線で池袋から3つ目の江古田駅から歩いて10分、育映社という会社である。社長の宮本さんは、お父さんの宮本亀之丞氏が戦前やっていた映画現像の仕事を戦後引き継いで今日に至っているという。そういう方なら探検団の立場をわかってもらえそうだと思い、不燃化作業にとりかかる前に何が映っているのか見ることはできないものか正直に相談した。探検団のふところ事情と好奇心との戦いである。

育映社には今田長一さん(59歳)という技術者がいる。社長の宮本さんの相棒でこの道40年の現像職人である。私のわがまま、つまり作業を依頼する前に内容を知りたいという願いに答えて、今田さんは自作の特別装置をセッテングして待ち受けてくれた。

その特別装置はこうであった。先ず小型カメラをTVモニターにつなぎ、フィルムリールを手でまわしながら、一コマ一コマをカメラに写して見てゆくものであった。おかげで、スローテンポではあるが、TV画面サイズで全部見ることができた。

映像はクレーンで飛行機を吊りあげては、ポチャーンと海に(湖かもしれない)に落すだけの単調な繰り返しだった。昭和6年11月2日から5日にかけておこなわれ、25センチからはじまって、4メートルの高さまで何回も繰り返されていた。おそらく何かのデータを取るための実験であろう。しかし、映像に物語性が感じられない、というのが私の正直な感想であった。それでも立花先生の決断で不燃化作業と16ミリ化を依頼することになった。以上が17号館(工作工場)から見つかったフィルムの顛末である。

育映社に持ち込まれる古いフィルムは35ミリばかりではないそうである。わかめのようにカールした昭和初期の16ミリの反転フィルム、中央に穴のあいた9.5ミリ、さらには28.5ミリといったかって見たこともないものが持ち込まれることもあるという。保存状態はさまざまで、缶のふたもあかず、今にも発火しそうなものからくっついて溶けてしまっているものなどもあるという。そのなかでも探検団が持ち込んだものは、きわめて保存状態がいいといえるらしかった。革のケースに入って通気があったことも幸いして、撮影後64年間も生き延びることになったのである。備品リストによると、この映写機は昭和3年に1080円で購入されていることがわかった。フィルムには編集時の接着剤の跡がなく、編集後プリントしたものらしいということもわかった。ではフィルムの残りはどこにいったのだろう?何のための実験なのか?フィルムの最後にある「広工廠」とはどこのことだ?などの疑問が湧いてきた。

さらに日本で唯一人、40年にわたってあらゆる可燃性フイルムを見てきた今田さんによると、昭和初期の映像でときどき出てくるのは、ほとんどが宮様方の地方訪問などであるという。探検団が持ち込んだ映像を「珍しい」と感じたそうである。「おたくの学校だからこそ今までなくならずにあったんだと思います」ということであった。

<1996年1月発行 先端研探検団 第二回報告書14頁 掲載>

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