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第三義勇飛行艇・海防義会・帝国飛行協会

財団法人 日本航空協会 調査部副部長 酒井 正子

1995年の年の瀬も押し迫った12月22日、先端研探検団の例のフィルム映写会に参加した。クレーンで吊り上げられた水上機の機体が海面に落とされる。水しぶきをあげて機体は着水し、しかしどこにも損傷らしいものがない。この場面が単調に10数回も繰り返される。エンジンをはずされた殼だけの機体は最後まで試練に耐え続ける。わたしは見ながら不思議な感慨に襲われた。飛ぶという本分を放棄させられ実験に供されたこの後は恐らく解体されるだけであろうこの機体はどんな経歴を辿ってこの運命にいたったのだろうか・・・映写終了後、立花団長から、機体を特定したいが目下未成功である旨の説明があった。この瞬間協力を申し出る決心をした。わたしが在職する(財)日本航空協会の前身は、帝国飛行協会といい、戦前の日本を代表する民間航空団体であり、爾来茲に84年の歴史を持つ。発足当時からの資料書籍を保存する航空図書館も運営している。(財)日本航空協会の人間がやらなければ一体だれがやれるというのか。我が国における航空資料の宝庫を抱えながら、あの哀れな航空機の出生由来の解明を他人に譲ったとあっては航空協会の名が泣こう。

映写会が終わるや立花団長に協力を申し出た。だが、じきに後悔した。その日は金曜日、すでに夜。資料漁りに着手できるのは月曜日になってからであったし、目下わたしの本業は年末まで3日半を残して目茶苦茶に忙しい。しかも、団長に請け負った程簡単に資料書籍が果たして航空図書館にあるものかどうか。だいたいわたしは航空図書館にある『古文書』の棚をこれまで真面目に眺めたことがない。航空・空港関係の将来予測や実情調査を請け負うコンサルタント業務をしているから、戦前のデータにも資料にも関心が無かったのだ。

[12月25日]

朝一仕事の後、職場の仲間に戦前の水上機に関する資料を尋ねると、「『日本航空機辞典』明治43年~昭和20年」を薦められた。陸軍と海軍別にそれぞれ製造年代順に編集されている。「昭和6年11月」「広工廠」「水上機」の3つをキーワードに、薦められた2cmの厚さの頁をめくると海軍の項に広工廠製作の該当する水上機(飛行艇であることがここで判明)が、その第1号機から4機まで、簡単に見つかった。しかし、フィルム画面から記憶している翼と胴体の付き方が決定的に違う。広廠H 1 H 1~3(海軍一五式)は昭和2年完成、複葉式全木製。広廠H2H1(海軍八九式)は前述H1全木製の全金属製骨組製で、5年完成、複葉式である。広廠H3H1(海軍九〇式一号)は単葉式で6年完成。日本人設計による3発全金属製飛行艇である。広廠H4 H 1~2(海軍九一式)は6年設計着手、ただし完成は8年。略号H○H○の最初のHは用途別機種として飛行艇を、あとのHは製作所名称として広工廠を示す。結論として、H2とH3の折半型のように思われるが今一つしっくり来ない上に、それでは22日に聞いた立花探検団の目下の結論と同じになってしまう。

もう一度丹念に頁をくり直すと、H2H1の少し前に、「海軍第三義勇飛行艇(川崎KDN-1)」の写真があった。主翼と尾翼の形が記憶のものにそっくりである。KDNとはKawasaki Dockyard Navy を意味する。そういえば、フィルムの最初に第三義勇という字幕が出ていたゾ。

[海軍第三義勇飛行艇(川崎KDN-1)]
海防義会がさきに海軍に献納した国産全金属製双発型KB飛行艇が、大正15年3月22日試験飛行中に墜落破壊したため、海防義会では新たに海事および民間の技術者の協力による金属製飛行艇設計調査委員会を設けて、直ちに設計に着手した。委員会は、田中舘愛橘博士を長とし、岩本周平、横田成沽、上田良武、植村東彦委員、のち橋口義男、近藤勝治両委員を加え、さらに佐竹敬吉委員を附属とし、設計主任者は横田成沽、工作技術監督は橋口義男造兵大尉の担当で、製作は川崎造船所神戸飛行機工場で行われた。
動力は国産で最強の川崎BMW-6 500~750hp 2基で、当時の国産機として最大・最重量で、昭和3年10月に完成し「第三義勇飛行艇」と命名、同月22日神戸港で初飛行した。最初、木製プロペラつきで試験飛行したが、さらに川西航空機製の金属製プロペラに換装したところ、性能は良好となり、全重量8,300 kgで離水時間17~35秒という好成績を示した。しかし、その後海軍の金属製プロペラつきの一戦闘機が、プロペラ事故で墜落し、金属製プロペラの使用禁止令が出たため、本艇もふたたび木製プロペラに換装された。
このため発動機ナセル附近を中心に振動が多くなり、性能は低下して事故を連発、ついに試験飛行を中止し、6年5月広廠まで飛行したあと、謌査のため分解、その後は大型金属製機の研究試験に供され、結局試作1機で終わった。

コレダッ。もう天にも昇る気分である。週末前日2日間の不安がフッ飛んだ。この結果を一刻も早く探検団に知らせたい。立花団長の文京区事務所連絡先を捜し出して、関係頁をfax。うれしさと言い出しっぺの義理を一応果たした安堵感で、この日は午後まで仕事の首尾は上々。

[12月26日]

前日自分なりに特定した「海軍第三義勇飛行艇」の裏付けをしたい。本業もそこそこに資料を探しにかかった。昭和6年11月に耐久試験をした事実をつかむことが目標である。「航空年鑑」に狙いを定めた。航空年鑑は昭和5年(1930)来今日まで、我が航空協会が連綿と刊行している一大目玉の書籍である。航空図書館でバックナンバーを揃えていることは言うまでもない。「昭和7年 航空年鑑 遞信省航空局監修 帝国飛行協会發行」(活字は右から左に印字されている)の1頁から始まる航空1年史(自昭和6年1月1日~12月31日)の11月4日に、つぎの記述を見つけた。

[昭和6年11月4日]
廣島縣廣海軍工廠に於て、同工廠航空機部、機關研究部及帝大航空研究所等の各關係者立會ひの上、全金属製飛行艇第三義勇號の破壞試験行はる。

期待した以上の情報が惜しげもなく目の前にある。あのフィルム撮影時のこちら側に東京帝大航空研究所の田中舘愛橘博士が立ち会っていたかも知れない。興奮するな、という方が無理だ。

この年、8月26日チャールズ・リンドバーグが日本に飛来している。9月10日天皇陛下がリンドバーグ大佐に対し勲三等旭日章を贈っているが、霞ヶ浦海軍飛行場到着2日後の8月28日、帝国飛行協会は自社ビルの飛行館にリンドバーグ夫妻を招いてフォーブス米国大使、小泉逓相の臨席のもと白色有功章を贈っている。そのときの記念写真が、ある偶然からわたしが仲介してアメリカ人の手から航空協会に寄贈されることになったのが、この12月はじめのことである。昭和6年という年がわたしにとって何かと因縁があるらしい。

ともあれ立花団長に関係頁をfax。

[12月27日]

前日オフィスで「海軍第三義勇飛行艇(川崎KDN-1)」の頁を開いている時、我が協会の生き字引職員から「この海防義会からウチは無条件で資産継承を受けているんだ」と聞かされた。この言葉が出勤途上から頭の中を占領している。フィルムの機体が「第三義勇飛行艇」で間違いないと仮定して、これを海軍に献納したという海防義会とは何ぞや。しかも、それが我が協会と無縁ではないらしい。早速往時の書類を探してもらったが書類は見つからない。書類もいわゆる財産らしきものも元々無かった筈だと言う。探検団の方へは昨日迄で義理を果たしているから一件落着と棚上して、今日は我が協会の歴史を紐解いてみよう、などと考えて出社した。

協会創立75年を記念して数年前に編まれた「協会75年の歩み」を初めて開いた。こういう本は問題意識を持って見てようやくにしてその真価を理解できる。成程書かれていた。その他、協会の年報綴り等を調べて確認できたことは、海防義会の正式名称は義勇財団海防義会、のち財団法人海防義会となり、戦後遅くとも昭和27年時点では財団法人海事協会と名称変更になっており、我が協会が今日の人畜無害の平和な組織に改組する前後に全資産を引き継いでいるということ。その資産であるが、航空協会も海事協会もどちらの協会とも大半を既に散逸させており、立派なのは名前ばかりだったようだ。

さて、義勇財団海防義会を知るには、海軍に献納した1号機「KB試作飛行艇」に関する前述の航空機辞典の説明が簡にして要を得ているので引用する。

[海軍 海防義会 KB 試作飛行艇]
大正11年9月、義勇財団海防義会では、全金属製飛行機の製作がまだ日本で成功していない実状のため、日本人の設計による初の全金属製飛行艇を試作、陸海軍および民間の研究に資することを決議した。
帝国大学航空研究所、陸軍、海軍の各権威者による「金属製飛行機設計委員会」を組織し、設計を委嘱することになり、同会は田中舘愛橘理学博士を長として、菱田唯蔵、横田成沽、本多光太郎、岩本周平、上田良武、植村東彦委員、赤石久吉、堀将之、村瀬文雄、有坂亮平各委員をもって構成、機体の設計主務者は横田成沽技師、試験操縦士は赤石久吉海軍少佐、機体の製作は陸軍造兵廠東京砲兵工廠の担当となった。

当機は大正15年試験飛行中に墜落し、赤石大尉ら4人が死亡した。この出典は我が財団が編纂した「日本航空史・昭和前期編」年表であるが、赤石少佐と大尉の差異は殉死だったため、死後1階級昇進したことによるのでであろう。

海軍関係者が執筆した航空史関係資料を幾つか取り混ぜて立花団長にfax。午後、粟野誠一先生と協議した結果「第三義勇飛行艇」と特定できた旨の電話をもらう。帝国飛行協会と義勇財団海防義会の関係が気になって仕方がない。そんな雑談を交わした。

[12月28日]

仕事納めの日である。作業時間は3時までしかない。航空図書館で見つけてもらった「義勇財團海防義會十五年史」を借り出して頁をめくった。贈り物の包み紙を開ける子供の心境である。しかも周囲の誰もこの重大な情報に気づいていない。心が浮きたつ。頁繰りを急くと変色した紙がビッと縦に裂けてしまう。手元が用心深くなり落ち着いてくる。

義勇財団海防義会は、大正11年1月20日海軍・逓信両大臣より設立許可を受け、2月8日設立登記している。その基本財産は明治37年10月に創設された帝国義勇艦隊から継承した資産である。事業目的はつぎのとおりである。

[義勇財團海防義會 寄附行爲 第三條]
    本會ハ帝國の海防に貢獻スルヲ以テ目的トス
    一、軍用二供シ得ヘキ船舶、機器ヲ製造又ハ購入シ適當ノ方法ヲ以テ之ヲ管理シ又ハ處分スルコト
    二、造船、造兵、造機、航海、航空、潜航及海防ニ關スル特殊事項ノ研究、調査、著作ヲナシ且之ヲ奬勵助成スルコト
    三、前號の成績顯著ナルモノニ對シテハ表彰ヲナスコト
    四、外國ニ於ケル第二號卜同種ノ事業ヲ紹介シ又ハ著作ヲ飜譯スルコト
    五、海防ニ關スル思想普及ノ爲メ適切ナル施設ヲナスコト
    前記以外ノ事項卜雖モ海防ニ必要卜認ムルモニハ之ヲ行フコトアルヘシ

この目的に沿って海軍に寄付した飛行艇には義勇号の名が冠せられ、「第一」(昭1)から「第十三」(昭10)まである。寄付第1号のKBと「第三」に関して海軍へ機体を設計製造して提供した費用、さらに修理演習・試験費用として寄付した総額は、当時の金額でそれぞれ15万円(大13)、20万円強(昭6)である。この金額は、昭和4年に完成した帝国飛行協会の瀟洒な四階建レンガ造り「飛行館」が50万円かかったことから想像できるであろう。

立花団長にfax。午後3時オフィス大掃除、5時年末年始1週間の休日用に古書など数冊抱えて退社したが、本の余りの重さに、つい家までタクシーとなった。

[12月29日]

晩自宅へ、立花団長から電話が入った。新たに見つかった「白鴎会」資料に大日本飛行協会の名が出てくる由。大日本飛行協会というのは、帝国飛行協会が歴史の流れに翻弄されて翼賛体制に組み込まれた後の名称である。こういう場合後の揺り戻しが怖い。事実、戦後、航空禁止令が出ると協会は解散させられた。航空研究所も空白期を迎える。しかし歴史はうまくしたもので、この2つとも「寝たフリ・死んだフリ」をして6年間半を生き延びていく。蛇足だが、その間民間航空運送事業も解散・禁止させられている。

[帝国飛行協会・大日本飛行協会]
帝国飛行協会は大正2年、我が国航空の推進を目的に、初代会長に時の総理大臣大隈重信、総裁に久邇宮を戴いて民間団体として発足した。航空思想の普及・航空技術の向上を図るため、国民向けに国内各地で飛行競技大会、懸賞郵便飛行大会、講習会、映画会の開催、各種補助金の交付、陸海軍および民間航空殉職者に対する慰助活動、懸賞論文募集、海外からの有名飛行家歓迎など多彩に事業を展開した。とくに昭和2~3年、太平洋横断飛行を計画してその意図壮大なものがあったが、残念ながらこれは挫折している。
昭和6年、満州で始まった日中間の軍事衝突が太平洋戦争に拡大していくと、帝国飛行協会は航空戦力に直結する戦時体制への切り替えを迫られていく。15年9月閣議決定、翌10月帝国飛行協会を継承して大日本飛行協会が発足した。総裁に梨本宮(元帥・陸軍大将)、名誉会長に総理大臣近衛文麿、内閣が変わると東條英機が就いた。顧問は10人。現役大臣・陸海軍大将6人に交じり田中舘愛橘博士が貴族院議員として名を連ねる。会長田辺治通(前逓信相、後の内相)、副会長堀丈夫(陸軍中将)の執行部体制は、パイロット(予備空軍戦力)の大量養成を急いだ。昭和17年、滑空指導員の大量募集、地方滑空訓練所の全国150ヵ所設置、一般青少年や学徒を対象とする航空基礎訓練にも乗り出していく。並行して民間航空団体の本協会への統合単一化が着々と進められていった。日本学生航空連盟、日本帆走飛行連盟等の吸収合併はその一環である。国防航空第2陣を受け持つ実践機関としての役割を遂行していったのである。そうした予算は国の支援と軍需工業をバックとする東西財界から寄せられた多額の寄付で賄われ、帝国飛行協会時代とは打って変わって財政は潤沢であった。
そして20年8月15日を迎える。11月連合総司令部から航空禁止令が出て、航空は製造も研究もすべて中止させられ、航空空白期間の始まりである。敗戦・解散の運命となった大日本飛行協会の資産は(財)逓信科学振興協会に継承された。

   

26年9月平和条約調印、翌年4月条約発効により航空禁止令が解けると、現在の(財)日本航空協会が衣替え発足した。

興味の尽きない我が協会史ではあるが立花団長へfax送信はできなかった。

  • [おもな参考文献]
    1.日本航空機辞典-明治43年~昭和20年 (有)モデルアート社 1989
    2.昭和7年航空年鑑 帝国飛行協会発行 1932
    3.海軍航空史話 和田秀穂著 明治書院 1944
    4.日本海軍航空史 時事通信社 1969
    5.日本民間航空史話 (財)日本航空協会 1966
    6.飛行機設計50年の回想 土井武夫著 酣燈社 1989
    7.協会75年の歩み-帝国飛行協会から日本航空協会まで (財)日本航空協会 1988
    8.義勇財團 海防義會十五年史 義勇財団海防義会 1938
    9.日本航空史・昭和編 (財)日本航空協会 1975

    右の写真は『義勇財團 海防義會十五年史』より

<1996年1月発行 先端研探検団 第二回報告書18頁 掲載>

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