落下試験の意味 立花隆

ここで、第三義勇号についてもう少し解説を付け加えておく。まず義勇号の名前についてである。酒井さんの報告にもあるように、義勇号は、義勇財団海防義会が作って寄付した飛行機だから義勇号という名がつけられた。

では、義勇財団海防義会とはなんなのかというと、話は遠く日露戦争までさかのぼる。

日露戦争が勃発すると、ウラジオストックにあったロシア艦隊が、日本列島の周辺を徘徊し、一隊は東京湾口をうかがうにいたったので、日本では海軍力増強の声が高まり、国の予算だけでは足りないから、民間の寄金をつのって、義勇艦隊を作ろうということになった。平時は商用に用い、戦時は軍用に用いることができるような特殊な船団を作ろうというのである。

有栖川宮を総裁に帝国義勇艦隊創設委員会を作り、全国に寄付を呼びかけると、あっという間に150万人が寄付に応じ、470万円が集まった。

その資金で、明治四十一年に「さくら丸亅、「うめが香丸」の二船が作られた。後に、第三船「さかき丸」も加わった。平時は「さくら丸」は台湾航路に、「うめが香丸」は青函連絡船に使われることになった。

その後も民間から資金を集め、海防力強化のため寄付事業を行おうということになり、その事業主体として、大正十一年に設立されたのが義勇財団海防義会である。その理事、評議員には、日本の財界、学会の重鎮が名前をつらねている。その中には、斯波忠三郎、田中館愛橘、和田小六など、大正六年に作られたばかりの航空研究所の幹部たちも名をつらねた。事業目的の一つとして、海軍に飛行機を作って寄付することがはじめから考えられていたのである。というより、実は義勇財団海防義会の寄付は、ほとんどが飛行機だったのである。というのは、日露戦争以後、戦争の立て役者であった海軍は大拡張され、新造艦が次々に作られ、義勇艦隊の存在意義は薄くなった。その上、軍事技術の進歩によって、軍艦は独自の発達をとげ、平戦両用の船など、軍事的に意味がないということになってしまったのである。

しかし、飛行機のほうは、第一次対戦以後その軍事的可能性が世界の注目を集め、海軍でも研究が開始されていたが、まだまだ技術的揺籃期にあり、民間からの資金的支援に大きな意義があったのである。

義勇財団海防義会が設立されて最初にした事業は、ドイツからユンカース式金属製水上飛行機を八万円で購入して、これを海軍に寄付することだった。当時、飛行機の機体を木製から金属製に変えて強度をあげるという動きが世界的に出ていたが、日本ではまだ一機も製造はおろか輸入もされておらず、技術開発が著しく遅れていたので、その研究用に購入したのである。

これと同時に手をつけたのが、日本独自の金属製水上飛行機を作って海軍に寄付しようというプランだった。そのため、義勇財団海防義会の中に、設計委員会と発動機委員会が作られたが、その主力メンバーには、帝大航研の教授たちが名をつらねていた。できて間もない航研にとって、これは本格的な飛行機作りに参加する初の大プロジェクトで、航研の総力をあげて取り組む形となった。

この飛行機は十二万円の費用をかけて四年がかりで完成し、KB型飛行艇(KBは海防の頭文字)と命名され、大正十四年に海軍に引き渡された。しかし、酒井さんの報告にもあるように、この飛行艇は翌大正十五年、試験飛行中に墜落して四人の死亡者を出してしまったのである。

義勇財団海防義会では、ただちにこれに代わる新しい金属製水上機の開発に乗り出した。それが第三義勇号なのである。

第三義勇号というからには、もちろん第一義勇号、第二義勇号があるわけだが、これは木製の水上機で、やはり義勇財団海防義会が発足してすぐに川西飛行機に発注され、昭和元年に完成している。

第三義勇号は、昭和三年に完成して、海軍に寄付された。製作費は十八万五千円だった。製造したのは川崎造船所飛行機部(現在の川崎重工神戸工場)である。前部と後部に機関銃をそなえ、爆弾二個を搭載していた。試験飛行当時は、全備重量八・三トンで、離水時間十七~三〇秒。空中性能きわめてよしとの評価を受けていた。時速一八〇キロで、海軍が神戸で引き渡しを受け、横須賀まで空中輸送したとき、三時間で飛ぶことができた。

海軍では、横須賀でこの飛行機の実験飛行をいろいろやるつもりでいた。ところが、酒井さんの報告にあるように、この飛行機の金属製プロペラを木製プロペラに変更したところ、振動が多くなり、その上、離水時間も長くなり、性能が良くないとの評価を受けるようになった。

その後数年間にわたって、第三義勇号は横須賀に係留されたままで、あまり飛ばされることもなかった。しかし、それではもったいないというので、昭和六年五月になって改修して南日本一周飛行をやってみようということになった。

そのための費用一万九千円を義勇財団海防義会が寄付している。ところが、改修したはずなのに、横須賀を飛び立ってしばらくすると異常振動が起き、名古屋港に着水して調べてみると、プロペラに割れ目が入っていた。そこで、神戸の川崎造船所から代替品を取り寄せて再び飛んだが、大阪まできたところで、また異常振動が起き、着水して調べてみると、またもプロペラに割れ目が入っていた。もう一度新品のプロペラを取り寄せて南方に向けて飛んだが、広島県の広まできたところで、またも異常振動が発生。調べてみると、またもプロペラが割れていた。ここにいたって、飛行をここで中断し、徹底的な原因究明を行うことになった。この飛行機をまた飛べるように補修するというのではなく、飛行機を解体してもよいから徹底的な構造試験をして、将来の設計資料を得ようというのである。そのため、海軍と帝大航空研究所と義勇財団海防義会で、合同の調査委員会がつくられた。

まず、プロペラを金属製から木製に変えたことに問題があると考えられたので、金属製と木製のプロペラを交互につけ変えて、地上運転と低空飛行を何度も行って振動試験をした。次に格納庫の中で、翼や機体各部の固有振動を詳細に調べた。最後に飛行艇全体を海面に何度も落下させて、その衝撃によって、どのような破損が生じるかを調べた。これがフィルムに残されていた実験だったのである。

「義勇財団海防義会一五年史」は、第三義勇号の記録の最後に、次のように記している。

「本飛行艇は本会において多大の費用をなげうち多数設計者の労力をはらい、川崎造船所もまた多大の費用と日時と労力とを犠牲にし、本邦において完成したる最大飛行艇なりしも、なんら実用的真価を示さずして実験材料となりおわりたるは、本会の遺憾惜くあたわざるところなり。ただその際実験した翼振動の成績は、爾後本邦ならびに諸外国に頻発せる金属製大飛行機の振動事故の解決推定に好個の資料となり、また落下試験の成績は爾後本邦大飛行艇体の構造に変革を及ぼしたる諸点において、その航空技術上に貢献するところ多大なるものありたり」

これを読んで、やっとあの落下試験にも歴史的な意味があったのだということがわかった。

<1996年1月発行 先端研探検団 第二回報告書22頁 掲載>

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