土井武夫さんインタビュー

インタビュアー:隅蔵康一

前述のように、日本航空協会の酒井さんのご協力により、フィルムに収められた水上機は海防義会が海軍に献納した第三義勇飛行艇であることが明らかになった、また、映像の中の落下試験は破壊試験であったこともはっきりした。我々は最後に、この飛行艇に何らかの形でかかわった人物を捜し出すことに挑んだ。

12月27日に、21号館の謎解きの際にお世話になった粟野誠一先生、戦前に陸軍の航空技術研究所で研究をなさっていた中西正義さん、国立科学博物館の鈴木一義さんの御三方が先端研にいらっしゃったが、その時に問題の映像を見ていただいた。そして立花先生が、第三義勇号の製作が川崎造船所で行われたということなど、それまでに明らかになっていた事柄を説明した。すると御三方は、川崎造船所は川崎重工の前身だから、現在川崎重工業の技術顧問をなさっている土井武夫さんならこの機体について何かご存じかもしれないというコメントをくださった。

土井さんは、平成元年に「航空機設計50年の回想」という本を著している。その中の年譜によると、土井さんは明治37年生まれで、現在91歳でいらっしゃる、昭和2年に東京帝国大学工学部航空学科を卒業後、川崎造船所飛行機部に入社。ドイツ留学後の昭和8年頃からは川崎航空機の設計陣の中心として各種の航空機の設計にあたった。敗戦で退職なさったあとも、日本航空学会評議員、名城大学教授などを歴任されている。

我々は、土井さんにビデオを送って映像を見ていただき、その後1月11日に電話によるインタビューを行った。以下はその記録である。

―――― 映像の中の水上機についてご存じのことがあれば教えて下さい。

これは間違いなく、海防義会の第三義勇飛行艇です。あの飛行艇が飛んでいた頃、私は20代前半でした。

第三義勇飛行艇の設計は、昭和2年の4月から始まりました。設計者は,海軍技師の横田成沾さん。当時川崎にドイツ人のDr.フォークトという人がいて、おそらく横田さんも設計に関して彼のアドバイスを受けたことでしょう。

その頃川崎は、主に陸軍の仕事を請け負っており、海軍の仕事はほとんどしていなかったんです。そこで、川崎造船所飛行機工場の所長が、海軍との関係を築き上げるために第三義勇号の注文を取ったんです。

完成までには2年ほどかかりました。昭和3年の終わり頃完成したのですが、その時、兵庫工場から神戸の川崎造船所のガントリークレーン(大きなクレーン)のあるところまで、夜中に、満潮の時を利用して持っていったんです。私もその時、第三義勇号に乗っていきました。ガントリークレーンで組み立てて、そこで重心位置を測定したりしたんです。

―――― 実際にあの飛行艇に乗られたわけですね!その後のことは何かご存じですか?

海軍でその後試験が行われましたが、耐波性がよくなかったようです。また馬力不足でもあったのでしょう。エンジンは500~600馬力のものが2台タンデムになっているのですが、8t以上の飛行機ですからそれでは不十分なんです。結局、あんまり使われずに終わってしまったんです。

―――― 落下試験の時は現場にいらっしゃったんですか?

私は昭和6年にはドイツにいたものだから、直接は見ておりません。画面を見たところ、川崎の人は参加していなかったように思います。私は昭和7年にドイツから帰ってきましたが、その時にも落下試験のことは聞かなかったです。

川崎ではこのほか、海防義会の第四、第五義勇飛行艇も作りました。しかし、どういうわけか昭和6年以降はほとんど海軍と関係がなくなってしまいました。だから川崎には落下試験開催の通知や試験結果の報告はなかったのではないでしょうか。

―――― こういった実験は珍しいものなのですか?

4mもの高さからの落下実験をやるのは珍しいことです。この試験の結果は、海軍の飛行艇のためのいろいろな基礎的なデータになったことだろうと思います。

―――― どうもありがとうございました。

こうして、フィルムと文献から掘り起こされた第三義勇飛行艇、同時代を生きた土井さんのお話により、我々のイメージの中でいきいきと動き始めるに至ったのである。

<1996年1月発行 先端研探検団 第二回報告書24頁 掲載>

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