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第16回 当事者研究 分野 熊谷 晋一郎 准教授

熊谷 晋一郎 准教授

概念を作る、概念をつなげる

哲学者ジル・ドゥルーズと精神分析学者フェリックス・ガタリは、最晩年の共著『哲学とは何か』のなかで、哲学と科学の区別をしてみせた。彼らによれば、哲学は「新しい概念を創造する営み」であるのに対して、科学は一定の概念群を所与としたうえで、概念同士をつなぐ「関数を創造する営み」である。すべての研究者が求めてやまないのが、現実をよりよく説明し予測する「知」、そして現実をたくみに制御する「技」だとしたら、先端領域に哲学と科学の両方が求められることはあきらかだろう。

私がテーマにしている当事者研究という取り組みは、何らかの困りごと(たとえば、精神障害や発達障害、依存症など)を抱えた当事者たちが、互いに協力して、自分の経験を言い当てる新しい概念を生み出そうという哲学的な実践である。たとえば診察室で、当事者が自分の生きづらさをうまく言葉にできない場面を想像してみよう(私たちが使う自然言語は、多数派の経験をうまく表現できるようデザインされており、少数派の経験の中には対応する言葉が見つからないことも多い)。たとえ言葉にできたとしても、それを医師に通じるボキャブラリーと関連付けられずに、相互理解のないまま処方薬だけが増えていくという状況もあるだろう。こんな時、当事者研究によって新しい概念を生み出し、さらに専門的概念に翻訳する関数ができれば、相互理解は深まり、より細やかな治療が実現する可能性も高まる。

もちろん、当事者が医師の使う概念に適応するだけでは不十分である。医師の側も当事者研究に応答する形で、自らの使い慣れた概念を反省的に振り返り、その一部を更新するような回路ができなければ、医師と当事者のコミュニケーションは実現しない。すなわち、当事者と専門家が、双方、哲学を行わなければならない。最近では、多くの医療機関や研究者が当事者研究の可能性に注目しており、実際の診療や支援に取り入れている施設もある。

ますます高度化する科学技術が、各々使い慣れた概念群に内閉して哲学をやめてしまったら、自らが説明できない範囲の現実を捨象することになってしまうだろう。それだけではない。科学や技術のステークスホルダーである広義の当事者の経験と、科学的観測との間に接点が失われ、科学コミュニケーションも立ち行かなくなるに違いない。先端は、互いの概念と関数を更新しあう異質な他者とのコミュニケーションの中に位置付けられるのではないだろうか。

(2015年8月)

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