第22回 田中 久美子 教授

田中久美子教授

先端研に着任して一年が経った。着任時には、前所長に「感無量」とお言葉をいただき、「コミュニケーション科学分野」に対する多くの先生方の御心と御期待を感じ、身の引き締まる思いであった。当初は右も左もわからなかったが、現所長が何かと気にかけてくださり、小さいながら何とか研究室として滑り出すことになった。

多種多様な人々が所属する学際的な組織は、刺激的で居心地がよかった。30年ぶりに再会した東大ピアノの会の先輩は日本を代表する政治学者になっていた。医化学系の先生方から新しい視点をいただき、不思議な慣例として福島のお米10kg購入した。つまらないことで下を向いていると、バリアフリー分野の先生に上を向くエネルギーをいただいた。家族構成の観点から、根っこの部分を共有できる先生方との出会いがあった。多くの先生方に暖かい御配慮をいただき、背景とする視点の差が新鮮であった。

先端研では、楽しいアクティビティもいろいろと行われている。国会やイスラムの政治状況を寄席で定期的に学んだ。ハッピーアワーと称する一月に1時間だけのハッピーな機会がある。2017年は先端研30周年でもあり、猛烈な若手の先生たちが未来を熱く語りまくる対談をとりまとめたりもした。次第次第に先端研の粋で破天荒な伝統に馴染んできた。

このいかにも楽しかった一年を振り返って思うことは、先端研は、日本の学界の中で残された数少ない秘境のうちの一つであろうということである。そのような場所であることは、外部からは(東大組織内にいても)わからなかったことである。文理融合をうたう組織は他にもあろうが、同じ文理融合でも、先端研は文系も理系も社会基盤に根付いた良い意味での固い分野を担っている。インフラから多種多様であるということは、既製の考え方が通用せず、より基礎的なところからの相互理解を目指す必要があるということだろう。さまざまな社会的要請から、個人にも組織にも課される制約は増大する一方である中、先端研は、多様性を力として秘境を守っているかに見える。幹部の戦略と防御の下で個々人の先生は精神的に自由である。そして、自由であるということはもちろん過ごした年月に対して責任をとるということでもある。

今回、「先端とは」との題に対してふと思い浮かんだのは以下のドゥルーズの言葉である。

 自分が知らないこと、あるいは適切には知っていないことについて書くのではないとしたら、いったいどのようにして書けばよいのだろうか。まさに知らないことにおいてこそ、かならずや言うべきことがあると思える。ひとは、おのれの知の尖端でしか書かない、すなわち、わたしたちの知とわたしたちの無知とを分かちながら、しかもその知とその無知をたがいにまじわらせるような極限的な尖端でしかかかないのだ。そのような仕方ではじめて、ひとは決然として書こうとするのである。( 『差異と反復』の「はじめに」から)
 

哲学者が書く態様とは異なろうとも、何か先端的なことを為そうとする時には、「知と無知をたがいにまじわらせるような極限的な尖端で」こそ活動するのであろう。このドゥルーズの言葉は、学問活動における自分自身に対する戒めでもある。が、それ以上に、先端的であることの有り様を一般的に述べているとも捉えることができるだろう。自分の無知を先端研で他者の優れた知と交わらせ、先端研でなければ届き得ない尖端に達することができればと考えている。

(2017年5月)

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