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『不思議空間の歴史発掘』 立花 隆

「先端研探検団」などというと大袈裟だが、要は物好きの集まりである。面白そうなことなら、何でも首を突っ込んでみたいと思っている好奇心旺盛な若者たちの集まりである。集まりというだけで、別に組織らしい組織は何もない。規約もない。規律ある行動は何もない。ときどき何となく話し合っては、見たいものを見に行く。聞きたい話を聞きに行く。 そういう活動をつづけてきた。それを個人個人の胸のうちにしまっておくのはもったいないと思って、こんな報告レポートを作ってみた。ページ数が少ないので、我々の見聞きしたことの十分の一も伝えられなかったが、読んでいただければ、この先端研の中には、先端研の住人ですら知らないものが沢山あることがおわかりいただけるだろう。

こんなグループが生まれたのも、もとはといえば、私がたった一人で、先端研の探検をはじめたからである。実をいうと、私は先端研の何たるかを十分に知らないままに、ここの客員教授になることを引き受けてしまった。先端研が面白そうな研究をいろいろやっているところだということは知っていたが、具体的な内容はほとんど知らなかった。

そこで私は、ここの住人になってすぐに、研究室めぐりを始めた。そこでどういう研究が行われているかを次々に見学させてもらったのである。これが何とも面白かった。やはり、さすが先端研という感じの、時代の先を行くユニークな研究が多く、思わず時間を忘れて話に聞き入ることが多かった。

研究の面白さもさることながら、このキャンパスには、不思議な空間がいっぱいあることにも興味をひかれた。だいたい、先端研のキャンパス案内図を見ると、半分くらいの建物しか表示がない。残りの建物は何なのかよくわからない。実際の建物の前に行くと、看板がかかっていて、それが何なのか表示がある建物もあるが、看板はかかっていても、人の出入りが見られない建物とか、看板もかかっておらず、誰も使っていない建物が相当あるのである。 あれはいったいなんなのだろうと思って、先端研の古くからの住人に聞いてみても何だか訳がわからないことが多い。私は好奇心のかたまりのような男だから、あの不思議な建物の中を片隅からのぞいてみたいと思った。

不思議な空間といえば、先端研の内部にもある。たとえば、榊教授の極小デバイス研究室がある二十二号館一階の一番奥の部屋である。驚くほど大きな部屋がさまざまの巨大な装置でいっぱいになっている。 「これは何ですか」と聞いても、榊教授にもよくわからない。「ぼくらがここに引っ越してきたとき、こういうものがいたるところに、ごろごろ転がっていたんです。それをまとめてここに押し込んだんです。宇宙研時代ここは原動機部門があったところだそうですから、ロケットのエンジン開発に使った装置なんでしょうが。ぼくらには全然わかりません」という。

よく知られているように、先端研以前、このキャンパスにあったのは宇宙研だった。 宇宙研前は航空研だった。航空研の歴史を遠くさかのぼると、一九一八年に設立された東京帝国大学航空研究所にいきつく。ここは、終戦まで、日本の航空研究のメッカとして、俊才を集め、年々巨額の資金が注ぎ込まれた、日本有数の科学技術研究所だったのである。

このキャンパスは、ほとんど戦災を被らなかったため、古い建物や設備がよく保存されている。外装がレンガ造り風の建物は、ほとんど、戦前の航空研時代にさかのぼるものである。榊教授の二十二号館にしても、実は、宇宙研以前の航空研時代から原動機部があったところなのである。あそこに山積みされた巨大な装置の中には、航空研時代からの装置もあるのかもしれない。このキャンパスにはそういう例が珍しくない。 たとえば、一号館にある巨大な三メートル風洞である。これは昭和五年(一九三〇)に作られたもので、当時、日本最大、世界でも有数の風洞だった。長距離飛行の世界記録を樹立した伝説の東大航研機を開発したのもこの風洞だったし、ゼロ戦の開発にもこれが利用された。吹出口は木製で、古色蒼然としているが、いまでも現役で、最近ではアメリカズ・カップの日本艇の帆の開発にも利用されたという。古色蒼然といえば、一号館の向いにある工作工場の工作機械群もそうだ。 大時代な旋盤、平削盤、ボール盤などがズラリとならんでいる。その中には、大正時代のプラット・アンド・ホイットニー社の旋盤などもある。航空研を作るとき、アメリカのトップ・メーカーの工作機械を買いそろえたのである。これまた現役でちゃんと動いている。

この研究所は、時代の最先端を行く研究所であると同時に、日本の技術開発の歴史をそのまま残した研究所でもある。いまは研究所の現在を知るために研究室めぐりをしているが、研究所の中に残る歴史を調べて歩いても面白いだろうなと考えた。

研究所めぐりでバイオセンサーの軽部研究室を訪ねたとき、見学が終わってから、そこの学生たちとしばらく酒を飲んで話をする機会があった。そのとき、この研究所には不思議空間が沢山あるから、歴史発掘をするつもりでみんなで探検してまわったら面白いのではないかというと、自分も参加してみたいという学生が何人かあらわれた。「先端研探検団だね。オッ、いいじゃない」という軽部教授の発言で、グループの名前もきまってしまった。メンバーに軽部研が多いのはこういう理由による。

夏休みが終わって、最初の教授会で、突然、18号館、19号館が取りこわしになるという話が出た。この二つは前から全く使われていなかった建物で、これは何なのだろうと思っていた建物の一つだったから、こわされる前に早速調べてみようということになり、これが探検団最初の活動になった。

そもそも18号館、19号館は何なのかということで、施設掛長の小松崎丈夫さんにうかがってみると、「それがよくわからないんですよ。あの建物はつい最近まで宇宙研の管理下にあって、うちの方にはあの建物が何だったのか、古い人に聞いてもぜんぜんわからないんです。カギを開けて入ってみましたら、いろんな古い機械が沢山あるんですが、何に使われたものやら、さっぱりわかりません」ということだった。宇宙研時代を知っている人なら何か知っているだろうと、いろいろ問い合わせているうちに、ラッキーにも、「先端研であの建物のことを知っているのは、いまでは、ぼく一人しかいないはずです」という人物に出会うことができた。他ならぬセンター長の岸教授である。

岸教授の案内を受けながら、18号館、19号館を探検してまわった記録が第3章から第5章まである。

なぜ18号館、19号館が取りこわされることになったかは、第2章の「キャンパス改造」に書かれている。いずれこのキャンパスを大改造するという構想は前からあったが、それが実現するのはまだ先の話と考えられていた。ところが、9月になって、突然、景気対策のための補正予算の一環として数十億円の予算がついて、キャンパス大改造が一挙に進行することになった。18号館、19号館は、我々が見学した二日後に本当に取りこわしがはじまり、今ではあとかたもない。あのとき記録しておかなかったら、あの二つの建物はあのまま永久に消え去っていたことになる。

第一回探検のあと、小松崎施設掛長の案内で、構内のカギがかかった建物の中を片端からみてまわる学内ツアーを企画した。その記録が、第6章である。どの建物も、カギを開けて入ってみると、驚きの連続だった。その驚きを十分に伝えるだけの紙数がないのが残念である。

そのあと風洞担当の渡部技官の案内で、3メートル風洞と走行実験設備を見学した。さらに、桜井、中川、田子技官の案内で、工作工場を見学した。その記録が第7章~第9章である。

これらの歴史的建造物もまた、近いうちにすべて姿を消すことになる。我々は期せずして歴史の記録係になった思いだった。

最後に、河村龍馬名誉教授に航空研時代の思い出をうかがったところで、今回の報告は終わりである。今後探検団は何をやっていくか。提案はいろいろ出ているが、まだ具体的には決めかねている。 もう少し歴史をさぐってみたい気もするし、今度は、各研究室の研究現場を訪ねてみたい気もする。留学生の生活をルポしてみようという声もあれば、教授の自宅訪問をしてみようかという声もある。とりあえず、乞うご期待とだけいっておこう。

<1995年10月発行 先端研探検団 第一回報告書1頁 掲載>

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