岸センター長インタビュー

「私が大学院生の時、ここの装置で論文を書いたんです」

この建物は、航空研時代の材料関係の建物です。航空というのは、材料と、原動機と空気力学と計測システムの4つから成り立っています。空気力学の中に構造力学が(当時)入り込んでいたのです。そのうちの材料が関っていたのがこの建物です。ちょうど1930年代に日本でも飛行機を飛ばそうという事になりました。飛行機用の軽くて強い材料ということでアルミ合金、ジュラルミンというのが開発されたのですが、これは日本が先行的に開発した物です。住友系の会社と基礎的研究をここでした建物です。その後は、戦後もその伝統を受けましてアルミ合金、マグネシウム合金、近年は、複合材料などの航空宇宙用の軽くて強い材料の研究が行われました。
立花
具体的にどの装置がどの目的に使われたんでしょうか?
この建物(18号館)と、つぎの建物(19号館)がいわゆる実験棟なんですが特にアルミ合金の時代には、溶解して作ったビレット(塊)をつぶす装置として、50トンの鍛造機という当時の大学では考えられないような、立派で大きな加熱してつぶす機械がありました。 それから、この部分に圧延機という物があったんです。
立花
土台だけ残ってるこれですか?
そうです。これはロールが2つの2段、向こうの19号館にはロールが4つの4段圧延機がありました。これも当時の最新鋭機ですね。つぎに丸いビレットを作ってそれを押し込んで、細くして棒の形にするため数百度の温度で押し出す機械ですが、これも多分日本で最初の装置がここにあったんです。
立花
装置そのものは今ないわけですね。
押し出しの油圧駆動系だけを残して本体は宇宙研に持って行ったのです。それから棒をうんと細いワイヤーにするのを引き抜きといいますが引き抜きの機械がこれです。ドローベンチといって細い線材を作る装置です。これは懐かしくて、私が大学院生、修士とか博士課程の時にこの装置を使った事があるんです。ですから、一通り大事な鍛造、圧延、押し出し、引き抜き、それも常温から高温までのアルミ系の材料を加工できる装置がここにあったんです。
立花
この辺の装置はいつごろまで使っていたんですか?
10年ぐらい前、宇宙研ができるまでは使っていました。しかし本当に使い込んだのは、戦前から昭和40年代ぐらいまでで。そのころから企業でどんどんいい装置ができてしまって国内でも他にいろいろ新しい物が出来てきたという事です。また、大学ではこのような装置が無いので本郷の材料系の学生がここを使って実習をやったという時代があります。
立花
こっちにも結構古い装置がいっぱいありますね。
これは旋盤ですね。加工の機械で昭和10年前後では超最新鋭の物をそろえてありました。このへんのは、ドイツですしね。鍛造装置は日本ですね。日本鉄工所とか書いてありますね。それから圧延機もドイツから来たと思います。そういう意味では、機械はまだ輸入しなければならなかった時代といえます。
立花
設備はここで開発したんじゃなくて・・・・・
送って来たんですね。一部は多分日本で作ったんだと思いますよ。
立花
ビレットはどこで作られたんですか?
ビレットは各社で、今で言う住友軽金属の前身とかで作っていました。ただ、向こう側の20号館でも作っていました。それを溶解してここで加工するのが一つの流れです。ですから企業に依頼して作った材料も入って来ますが、ここでかなり大きなものが全部溶解して作れるようになっていたんです。これが溶解、鋳造、圧延の3連の並びです。いまどきの大学よりはるかにちゃんと出来上がってるんですよね。それから当時は、技官の人がたくさんいて、この一連だけで10人ぐらいいました。今は技官がいないからぜんぜん設備が持ちこたえられないんです。
立花
当時は民間企業でもこういう装置を輸入してたのですか?
ほとんどなかったと思います。大学が本当に先進的にやってました。このころは企業ともっと一体だったですね。ですから今産学共同とか言うけれどもこのころの産学共同のほうがはるかに密着してましたね。
立花
いわゆる航研機のようなここで作った実験的な飛行機がたくさんありましたね。それはみんなここで何から何までつくっちゃたんですか?
もちろん最終的にはいろいろなメーカーが作る事が多いんですが、ここで間違いなく、基礎的な製作から溶解鋳造から実験からここでやっていたのです。航研機は昭和12年か13年じゃないですかね。そのころから後はメーカーが作りましたね。三菱とかそういう所にね。
立花
研究者の方はどれぐらいいたんですか?
教授の数でいえば20人くらいだったと思います。ところがですね、嘱託の形で、要するに今で言うと大学の学部卒ぐらいの人がその10倍ぐらい、いたと思います。その外に一番今と違うのは助手とか技術系の人がものすごく多い人数でいたんですね。
ここだけで技官が10人だったら研究所全体ではものすごい数だったんじゃないですか?
ものすごい数だったと思います。私が知っているころの30年ぐらい前でも1講座に技官が3人おりましてその他に週5日来る技術関連の人が4人ぐらいいましたね。昭和30年ぐらいにもまだ7、8人技官がこの材料系にいましたね。それが今じゃ一人ですよ。
立花
今こういう関係の研究は、大学かどこかでやっているんですか?
ある程度は大学でもいます。ただ、御存じのようにアルミ業界も鉄鉱も戦後驚くべき進展をしました。もう十分企業のレベルが上がっています。昭和40年代まではそういう研究がかなり盛んでしたが昭和50年代からはもっと理論的に行うように推移して来ました。こういう事をやるところは、本郷では生産技術研究所です。直接こういう感じにやるのではなく基礎的なものです。ただ、本当にできるできないという研究はこのような機械を使わないとできないですね。大体研究は何もない時に物作ってやるのが楽しいですね(笑)。
立花
戦時中だとかなり軍の機密だとかで厳しかったんですか?
厳しかったでしょうね。
立花
自分達で何をやっていたかなんてなかなか公表はできなかったでしょうね。
そうですね。ただ材料は、そのうちでは楽な方じゃないですか。レーダーをしていた人達はかなり制約を受けていたみたいですよ。ジュラルミンの作り方は、情報が漏れてもそう簡単にすぐまね出来ませんからね。レーダーだと性能そのものに影響しますからね。
立花
航空研時代は世界のトップクラスの技術者がいたんですか?
どうですかねえ、第2次大戦の後半の飛行機を見ると残念ながらB29と我がほうとを比較すると制御の関係で格段に違います。昭和10年から20年にかけて大きく差がついたのです。やはりドイツとイギリスが一歩先んじてましたね。そしてアメリカが1930年代に急速に頑張りましたね。日本が頑張ったのが昭和10年前後、リンドバーグが大西洋横断した時に航研機が1万2千キロ飛んだだの一生懸命頑張って、そのころは結構いいところにいた気がするんですけどね。やっぱりヨーロッパとアメリカの民間機の需要が大きくなったのに対して、日本は軍用機でしたからね。でも日本の飛行機は東南アジアとかでは飛んでましたけどね。
立花
神風号がロンドンを訪れたのも世界的な成果でしたしね。
そうですね。不思議ですね、日本にも戦前はあんな風に素晴らしい物があったんすけどね、そういう物が出なくなったんでしょうかね。ま、そういうわけで、私が知っているのはこの建物の材料の部分だけなんですけれどもね。
立花
ロケットのジュラルミンもここで作ったんですか?
ここで作ったわけではないのですが基礎研究はここでやりました。例えば東大のロケットだと一段目が普通の鋼です。二段目はマレージング綱と言って強い物です。三段目がチタンです。4段目のサテライトの部分がジュラルミンなんです。そのジュラルミンがここの延長です。ここではその後チタン合金の開発、マレージング綱の開発を、我々を含めてこの近辺の人が研究しました。それからもう一つは複合材料、FRPです。FRPをやっていた人は隣の建物の2階でやっていました。このように、鋼から複合材料へと変わっていったのです。
学生
ジュラルミンは、超ジュラルミン、超超ジュラルミン等がありますが全てここで開発したんですか?
全てここで開発したわけではなくて、住友系の会社、今の住友軽金属ですがそこが結構頑張って開発したそうです。しかしものすごく密接に共同でやっていました。それは国策として、国としてはここまで、会社はここからと決められていましたからそれしかなかったんです。それらの材料を組み立てたのが今の三菱重工とかですね。その頃の人は楽しかったみたいですね。競争相手がいなくて、また何でもやれたので。今は何とか鋳造法の専門家といった具合にまで細分化されすぎてますからね。
学生
当時の研究費はどのくらいだったんですか?
当時は、お金が足りないなんて誰もいわなかったですね。それはアメリカが月にロケットを打ち上げたのと同じ様な物ですね。あらゆる物に優先してやりますから。まあ、軍事ですからね。
学生
ここと本郷とはどういう関係だったんですか?
元々航空学科というのは東京大学にはなかったんです。昭和の初頭に機械の原動機の先生方が航空だけをやろうとして航空学科を作ったんです。ですから学科としては小さかった。そして実際に物を動かすためにこの航空研究所を作ったんです。ここは航空の関係だけで20講座あったんです。本郷はせいぜい10講座ですからはるかにこちらの方が、盛んでした。
学生
そもそも航空研をここに設置した理由は何だったんですか?
最初は深川の方に作ったんですけど、手狭になったということで、旧制一高(現教養学部)の隣の敷地に移転したんです。まあ、山の手に来たかったというのもあるかもしれませんね(笑)。
学生
その頃はこのあたりはどのような感じだったんですか?
当時は私も生まれていないので分からないですけれどもね、代々木上原が新しく住宅街として分譲されていたんです。代々木上原から東北沢の大山町は、土地の規格が大きいでしょ。一番小さくて250坪で売り出していたんです。それが麻布だとか都心のちょうど10分の1の値段だといわれていた時代です。私の家は下北沢なんですけれど、昭和20年代の終わりに引っ越して来た時には、沼地があったりして、田舎っていう気がしましたね。
海外から輸入した機械が多いという事なんですけれども海外から実際に技術者や科学者の方は来られたんでしょうか?
納入の時は技術者が来てましたが、科学者は案外来ていなかった感じですね。東大設立の頃と違ってその頃には日本人だけでなんとか出来るぐらいになっていたということでしょうね。しかし、この建物は壊すのは惜しいので先端研ができた時、音楽好きの初代センター長の大越先生がこの建物を音楽堂にしようと大分努力したんです。5号館を科学博物館にしてここを音楽堂、講堂にする、というのが先端研設立のときの理想だったんです。そして、隣をカフェテリアにしようとしていたんです。だけどいくら予算の概算を出してもそういうものにはお金がつかないんですよね。
立花
お金がつかないと結局消えていくほか無いわけですね。
学生
壊すお金はでるのに!?
壊すお金が出るのも、先端研を建て替えるための空き地を作る一期工事としてね。ただね、今日本で悪いところは壊して建てるっていう思想が良くないんだよね。本当はこういうものを残してうまく建てていく、そういうことを少し考えないとね。モーツアルトの家の番組を昨日テレピで見てたんだけどね、現在の6階建ての建物をみんな壊しちゃって、昔のモーツアルトの家を復元して同じものをつくっちゃったと。それが良いか悪いかはまあ別として、ああいう思想もどっかに置いとかないとさ、繋がらないよね。

(工学系研究科 先端学際工学専攻 平塚 淳典)

<1995年10月発行 先端研探検団 第一回報告書7頁掲載>

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