18、19号館取り壊しを前にして

旭井亮一(軽部研)

そう、私には東京大学は似あわない。なぜなら先端研の学生だから。私立大学出身で、しかも名門大学出身ではない私にとって東京大学はとても遠い存在であった。東大生になった今でも、私が東大生であることを人ごとのように考えている。それは、やはり先端研に所属しているからかもしれない。東大というとやはり、本郷の安田講堂や、駒場東大前のキャンパスをイメージしてしまう。数々の著名人を産出してきた大学の一部だとは、とても思えなかった。半年過ごしてきた先端研で、何もここについてわからなかったのだが、先端研探検団に参加するにあたり、過去のこのキャンパスの歴史を学ぶことになった。戦前はここは日本の航空技術のトップレベルの研究を行ってきたことを知った。
その先端研で使われていない建物を壊して新しく作り直すことになり、私達は閉鎖されていた建物の内部を見る機会を得ることができた。土曜日であるのにもかかわらず、ここについて詳しい岸先生と、事務の小松崎さんに案内してもらった。壊す建物の名前は数字でつけられているのだが、数字の由来はほとんどの人は知らない。しかも番号は続いてない。私は東京の家賃の高さに驚いているから、ここの使っていない建物などの無駄な空き地をなくせば、かなり広々とした場所を確保でき、有意義に使えると思っていた。極端な話、ここの敷地を全部リクルート社のような現代的な数十階建てのビルにすればどれだけ効率よく使えると考えていた。しかし、この建物について知るうちに、そんなことはできないくらい神聖な場所であることを知った。煉瓦でできた建物は外から見た限りでは、壊す必要もないくらいきれいに思い始めた。

過去50年のドアを開けると

頑丈なドアを開けると、古びた大型機械類が所狭しと並んでいた。対照的に、天井を見上げれば、大きな梁がある広々とした吹き抜けになっていた。こんな立派な建物を壊すのはもったいないと感じた。これがヨーロッパやアメリカであれば改装して残すであろう。無造作に置いてある鍛造機や圧延機など、自分の背丈以上の大きなものが全身サビだらけで存在していた。現在はほとんど倉庫としてしか使っていないが、昔は技官の人が1講座に7、8人はいて、活気に満ちあふれていった様子が想像できた。いま取り壊しが始まり、だんだん原型がなくなっていくのを見て物悲しさを感じた。こうやって文章の中でしか歴史を感じ取れなくなってしまうことは悲しいことだ。跡地には新しい先端研のビルの建設の話がある。かつて存在していた研究所の黄金期のように復活することを期待したい。

では、先端研でお会いしましょう。

<1995年10月発行 先端研探検団 第一回報告書11頁 掲載>

今関隆志(広松研)

初めて東京大学先端研の門をたたいたとき、その名前と、この場所の古風な建物群とは、どう考えてもアンバランスであった。それでも三年も通っていると、妙に愛着が湧いてくるのである。井の頭線から見える蔦の絡まった煙突、13号館1階男子トイレに張られた小さな古いフダ、13号館2階の談話室からコーヒー片手に見る紅葉の銀杏の木と古い石造りの18号館、そして帰りに見上げるボーっと光る時計台。じわじわとこれらの光景が、ここでの生活を彩るひそかなオブジェとなっているのである。

突然、その中の18、19号館、そして煙突がこわされることを知ったのは、猛暑もやっと終わり、わずかに秋めいた九月初旬であった。すわ一大事、こわされる前に中を見なくてはと、立花教授をリーダーとする我々先端研探検団は、記念すべき結成第1回目の探検を、こうして実施する運びとなった。

ご存じの方も多いと思うが、先端研の建つこの場所は、かつては東京大学航空研究所、その後、今も一部残る航空宇宙究所であった。したがって、ここの古い建物や設備はすべて当時の歴史を背負ったものである。ただし、現在、先端研にいる研究者の中で、当時を知る人は数少ない。そんな中でこの18、19号館を知る貴重な存在である岸センター長に中の説明をお願いしたのである。

最初に我々の視界に入ってきたものはこの建物の立派な柱である。太い柱は、我々が巨大な航空機の胴体の中にいるようだ。岸センター長によると、ここは昭和の初期に日本で最新鋭のジュラルミン鍛造、圧延設備が導入された場所であるという。そしてこの機械で研究された成果に基き、1938年無着陸世界記録を樹立した「航研機」は造られた。黒光りする鍛造機は、今でもどっしりとそこにかまえていた。古いこの建物の中で、かつて情熱に燃えた研究者が大勢いたのである。一つ一つの機械からそんな光景が伝わってくる。むかし、それらの機械には、それぞれ専門の技官と研究者がついており、技術はノウハウとともに日々蓄積されていた、と岸センター長は、技術伝承の重要さを盛んに強調された。

大学は基礎研究、企業は応用研究へと分業化の進んだ現代の科学研究にとってみれば、このようなことを大学に求めることはもはや不可能なのかもしれない。しかし企業でさえも技術伝承の空洞化が問題とされている現在、今の時代の知識を伝えるということを、我々はもう一度考え直す必要があるように思える。まもなく、の18、19号館は取り壊される。蔦の絡まった煙突も消える。それは惜しいがしょうがない。だが新しく建つ建物のなかに、どういう知識の場をつくり、知識を融合し、想像し、そして伝承していくか、それは我々の問題なのである。

「先端」とはなんだろうか。その一端に、今日半日の探検は一つのヒントをくれた。

<1995年10月発行 先端研探検団 第一回報告書12頁 掲載>

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