航空決戰必勝の鍵 白鷗會 〔復刻版〕

注釈

宮下尚久(軽部研)

注1)ガダルカナル島転進作戦
昭和18年2月1日から7日までおこなわれたガダルカナル島からの撤退作戦。ニューギニア南東に連なるソロモン諸島のガダルカナル島をめぐる戦いは昭和17年8月からおよそ半年にわたって繰り広げられた。この島に関する争いは、両軍の力がほぼ互角だったので太平洋戦争中最も激しい消耗戦になった。

注2)マレー沖海戦
真珠湾攻撃の翌々日の昭和16年12月10日にマレー半島の東の海域で行われた戦闘。南部仏印(ベトナム)の日本海軍基地航空部隊とイギリス東洋艦隊が戦い、イギリス側は最新鋭戦艦『プリンス・オブ・ウェールズ』と高速巡洋戦艦『レパルス』を失った。航空機対戦艦の戦いで航空機が勝利したことは大きな意味を持ち、従来の海軍思想の柱となっていた大艦巨砲主義に警鐘を打ち鳴らすものであった。

注3)当時の日本人の連合軍の戦力分析について
この文章の書かれた昭和18年初頭において米英蘭の3国は、確かに洋上戦力の大部分を損失していた。しかし1940年7月の『両洋艦隊法』議案の通過後に建造の始められた新造艦船が、この年の春以降に続々と実戦に投入されたことにより、戦局が一気に日本軍劣勢の方に傾いていった。このことを考えると、当時の日本人の状況認識の甘さがハッキリとわかる。
また、ここに記されている6隻の航空母艦の内、『サラトガ』と『エンタープライズ』の2隻は、大破はしたものの終戦まで生き残った。

注4)豪州が助けてくれと叫んだ理由
昭和17年の5月以降日本海軍の攻略目標は、ミッドウェーを除いて、ニューギニア・ソロモン諸島など全て南太平洋の島々だった。これは、アメリカとオーストラリアとの間の通商路及び補給路を遮断させ、オーストラリアを孤立させようとする狙いであった。

注5)昨年4月18日の方法による空母進行路
当時、米軍が日本本土を直接爆撃することが不可能だと信じられていた。これは最も近い米軍の飛行場から日本本土までの往復距離より、爆撃機の航続距離が短かったからである。しかし1942年4月18日、東京・横須賀・名古屋・神戸など数都市が米軍機により爆撃された。本来、航空母艦に着艦できないため艦載されない陸上用の重爆撃機B-25を空母『ホーネット』にのせ、日本本土の南方沖海上より発艦させて爆撃を行ったのだ。この爆撃は当時の日本を震撼させた。軍にミッドウェー作戦を急がせた原因ともいわれている。また、この4つの本土空襲路の内で唯一前例があるため最も有力視されていたと思われる。

注6)昭和18年12月8日
訂正。<昭和16年12月8日>の誤り

注7)爆撃機の装甲に対する認識について
この段落においては装甲の話から精神論までの論理的な大きな飛躍が感じられる。真珠湾・珊瑚海・ミッドウェー・ソロモンと航空機による戦闘が激化するにつれ日本の搭乗員の練度が低下していったのは明らかである。これはただ単に日本の航空機の薄い装甲とパラシュートをも搭載しないという搭乗員軽視の結果である。

<1996年1月発行 先端研探検団 第二回報告書46頁 掲載>

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